天災それとも人災?その19

8月6日の広島原爆投下作戦において観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島に帰還した夜、第二の原子爆弾投下作戦の指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられていました。その時に指示されていた戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機なしで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものでした。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いていました。
徹底抗戦を主張し、広島市壊滅の影響をできるだけ小さくするため、表向きは原子爆弾と認めようとしなかった陸軍参謀本部も、その内部ではそれを認めていました。それどころか、広島への原爆投下の2日後の8月8日、特殊情報部の中庭で参謀本部による表彰式が執り行われました。原爆搭載機のコールサインを突き止めた功績が評価されたのです。「V600番台のB-29が最も恐ろしい原子爆弾を積んでいることが判明した。同じようなコールサインの飛行機が今度飛べば、全部追跡して撃滅するから」とねぎらいの言葉をもらいました。

天災それとも人災?その18

その直後の昭和20年7月16日、米国は人類初の原爆実験に成功します。米国ニュ―メキシコ洲で爆発力の強大な新兵器の開発に成功したとのニュースは、断片的ながら情報は参謀本部にも伝わりました。日本の多くの研究者がこれは原子爆弾の製造に米国が先に成功したと判断したのに、陸軍上層部は一人もそれを認めようとはしませんでした。そして、通常100機、200機と大編隊で飛んでくるB-29と違い、単機もしくは数機という奇妙な行動をとる新顔600番台の “特殊任務機”の目的も不明とされたままでした。
8月6日午前3時、陸軍特殊情報部はV600番台のコールサインの特殊任務機が日本に向かっているとの情報に緊張感が高まっていました。これが、「エノラ・ゲイ号」でした。豊後水道から広島上空へ深く侵入しつつあるという、参謀本部には伝わっているはずの情報はなぜか広島の司令部には伝わらず、空襲警報すら出されませんでした。
 8月6日午前8時15分、広島市上空570メートルで原子爆弾が炸裂しました。無防備の多くの市民が犠牲になりました。「あのとき、空襲警報さえ出ていたら」、地下壕の中で運よく生存し、地獄のような地上の光景におののきながらも、懸命に負傷者の救護に当たる人々はそう思っていました。どうして空襲警報は出されなかったのか、今も理由はわかりません。
 8月7日になっても陸軍はそれを原子爆弾と認めようとはしませんでした。「米国は原子爆弾とか言っているようだけれども、非常に力の強い普通の爆弾とも思われる」とのコメントを出しています。陸軍が、有本精三中将を長とする調査団をつくり、DC3型輸送機に乗せて広島に向かわせたのは8月8日午後でした。その調査の大任をまかされた一行のなかに、日本の原爆製造に関わった仁科博士の姿もありました。
 輸送機は夕暮れの広島上空に達し、何度も何度も旋回しました。博士は窓にぴったり顔をくっつけて、食い入るように地上を見つめていた。そしてしばらくして、「これは、原子爆弾です」と口の中でそう低くつぶやいたといいます。しかし、悲劇はこれだけでは終わりませんでした。