「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その20 国民の熱狂)

山本五十六は連合艦隊司令長官として、半年や一年は暴れてみせる、と。彼は緒戦で敵を叩いて講和にもっていこうとするでしょう。真珠湾攻撃で、アメリカの航空母艦が逃れたとしても、かなりなダメージを受けている。アメリカ兵が三千何人も死んでいるわけだし、戦艦もたくさん沈んだ。どうしてあのとき日本には、和平にもっていこうとする動きがなかったんですかね。そんな話は全然していないんでしょう?(澤地久枝氏) 問われると答えづらいんですけれど、真珠湾での大勝利のあとでは国民が許さなかったでしょうね。真珠湾攻撃の大戦果で熱狂しちゃいましたから(半藤一利氏)。 それはね、マスコミの責任もありますよ。国民の熱狂をもっと抑えなくてはならなかった。それに、真珠湾で勝ったからといっても、昔から「勝って兜の緒を締めよ」というでしょう。「戦争というものは長く続けるものではなくて、収束時期を見なければならないのだ」という意見を誰かが言う。そしてそれを新聞やラジオが報道する、というような状況がない国だったのは、とても残念ですね。それで、シンガポールがそのあとすぐに落ちると、提灯行列になる。どこまで行くのかというと、自分たちも果てがわからなかった、と。やっている人たちもそうだったんです。(中略) 国民の熱狂ということは、いまもありますよね。たとえば、小泉純一郎が総理大臣になったとき、90パーセント近い支持率があったということは恐るべきことだと私は思うんです(澤地久枝氏)。 そうでした。今まで選挙にも行ったことがない人々が、抵抗勢力であるか、ないかと単純に色分けされた被選挙人名簿を見て、「私の一票が世の中を変えるかもしれない」と今までは関心をしめさなかった選挙速報の結果に酔い、全国民興奮の一夜がなかなか明けなかったのはついこの間のことのように感じます。

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その19 続々・日露戦争以来の大国意識)

日本は明治のなかば国家予算の約4割という途方もないお金を投じて、強兵の道をひたすら歩んで参りました。世界の強国ロシアとの戦が陸軍の必死の攻撃でかろうじて勝利を収め、何とか小康状態を維持していた頃、戦争の帰趨を決定的にする戦が、日本海海戦でした。ロシアは当時、世界一を誇ったバルチック艦隊を遠く日本近海まで一年以上をかけて送り込み、一気に雌雄を決するつもりでしたが、日英同盟により、主な寄港地での補給を妨げられ、長い航海で船底にはカキがこびりつき船速は落ち、そして何より兵の士気に陰りが見えつつあった対馬海峡で、立ちはだかったのが東郷平八郎率いる日本艦隊でした。この時のバルチック艦隊の艦艇の総トン数に対する日本艦隊のそれは約7割でした。それ以来、大東亜戦争が始まるまでの40年間、海軍を支配してきたものは、敵の戦力の7割あれば勝てる、という信念(たった一度の成功体験に過ぎないのですが)でした。 七割海軍と申しますが、七割あれば勝てるという考え方からいうと、昭和16年12月の時点では、日米の海軍の兵力は、トン数から行っても飛行機の数からいってもアメリカのほうがかなり多いのです。でも、アメリカ海軍は大西洋と太平洋に分かれていますから、太平洋だけで比べると日本はアメリカの兵力の七割、つまり七割海軍を作り上げているんです。ここなんですよ。これで日米開戦を来年まで延ばすとなると、相手はどんどん新兵力をつくっていくから、たちまち日本の兵力はアメリカの六割五分になってしまう。二年後、昭和18年になれば五割になってしまう、という計算が明らかになってやるならいまだ、となる。これが、最後の判断ですよ。明治以来の計算や図上の演習で間違いなく、「七割だったら勝てる」んですから(半藤一利氏)。
明治の大勝利以来40年間、日本国の秀才が陸大や海大を卒業し、軍のリーダーになっていきました。開戦直前、誰一人勝てると思っていなかった対米戦争にこうしてずるずると引き込まれていきました。根拠のないたった一度の成功体験を盲信して。