たちあがれ日本の共同代表を務めていた与謝野馨議員が民主党政権から連立政権参加の打診を受け、党内で孤立。2011年1月13日平沼代表に離党届を提出後、翌日、管再改造内閣にて経済財政政策担当大臣に就任しました。「自分には時間がない」、「最後のご奉公がしたい」とのコメントを発しました。この民主党政権参加に関しては、選挙区の東京1区で民主党の海江田万里氏に敗れ、比例代表で自民党議員として復活当選した経緯やたちあがれ日本の結党時の反党行為のため党より除名処分されていたこともあり、自民党や他の野党から強く批判されたのは記憶に新しいと思います。マスコミや民間人からも非難の嵐でした。
しかし、私は与謝野さんの「社会保障と税の一体改革」にかける情熱には一種の執念に近いものを感じ、心からの応援を送りたいと思います。管総理が財政破綻のマニフェストを改め、超高齢化・少子化を乗り切る頭脳として指名した与謝野氏はこれを意気に感じ、予想される批判をものともせず、30数年に及ぶ政治家人生の最後の仕事に集中しようとされている姿と思うからです。海江田さんに選挙区で3回も敗れ、2007年には喉頭癌で入院し、今後選挙で勝ちあがる自信もなければ、病身を押して政治家を続ける気力もない、そんなことを感じてせめてバッジを付けている間に自分の知識と経験をすべて残したいとお考えになったうえでの行動であると拝察しています。政治家としての勇気に心打たれる思いをされたのは私だけではないと思います。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その15)
英国保守党のキャメロン首相が苦境に立たされているとのニュースを見ました。日本の消費税に当たる間接税の税率を17.5%から20.0%に引き上げたこと、大学の授業料の減免比率を引き下げたことにより、市民生活に影響が及び大規模なデモが頻発していることを伝えていました。
英国では労働党政権がずっと続き、前の保守党の首相は以前このブログでもご紹介した「鉄の女」マーガレット・サッチャーです。首相として11年間在任中、徹底した意思と実行力で1980年前後の「英国病」と言われた国家窮乏の危機を乗り越えた名宰相として評価されています。1982年軍事独裁政権下にあったアルゼンチンの侵攻に対して敢然と立ち向かい、地球の裏側にある英国領へ軍を派遣し、勝利し、国の誇りを回復します。サッチャーは教育改革や労働争議とも熱心に取り組みます。ただ、社会保障、特に医療費の抑制に関しては「やりすぎ」と評されるほど国営医療を推し進め、国民には不評で、一時期イギリスの医師の国外脱出が続出し、英国医療は危機を迎えました。その後の労働党政権下で医療費、社会保障費の増額が図られて参りました。
しかし、その揺り戻しの結果、国は再び大きな財政赤字を抱え、財政再建のため再び保守党のキャメロン首相の手腕が試されています。英国も高齢化が進み、社会保障のあり方を間違うと国家の衰退を招く恐れが高いからです。サッチャーを意識したかのような強い意志を表明する演説に、わが国にもこのような強い政治家が現れてほしいものだと感じました。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その14)
ストーリーの後半部分では、誰も責任を取らない孫子の世代への付け回しを批判しています。国・地方を合わせて2011年度末で891兆円の長期債務残高、これは対GDP比184%と先進国では最悪の数字だそうです。1兆円とは誰かが毎日100万円を使い続けて250年それを続けても届かないすごい額です。約900兆円といえばただ事ではありません。昭和40年、東京オリンピック景気の直後の不況でつい2590億円の赤字国債発行を決めてからわずか45年間に、積もり積もった次世代へのつけ回しが約900兆円です。“今の豊かさ”のために孫子の世代への付け回しを、若い世代は拒否しようとしています。介護施設では、平均月収19万円の若者が平均年金23~4万円(一般サラリーマン厚生年金)のご老人を介護しているそうです。世代間格差は増大し、若者が高齢者に敬意を払わなくなったと警鐘を鳴らしています。平均月収19万円の若者は女性はともかく男性では結婚もできず、従って子供も生まれません。これは大きな問題ではないかと訴えているのです。
わが国の年金制度は賦課方式という世代間の持ちつ持たれつの制度、この世代間批判をこのままにしていたら、国が成り立たなくなる恐れがあります。消費税を含め小手先ではなく抜本的な改革が出来る政治家、そして大局的観点からその政治家を支える国民という展開をどうやったら我々は迎えることが出来るのでしょうか。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その13)
就職氷河期の若者が次に訴えるのは、とても支えきれない高齢者の社会保障です。これからが本番の超高齢化社会、高齢者は間もなく3000万人を超えます。そして、2012年以降、団塊世代が高齢者の仲間入りし年金支給が始まります。現在の出生数の3倍近くの約270万人を支える年金・医療・介護の各保険料は若者のお給料から容赦なく差し引かれます。高齢者は本当に弱者なのか。ストーリーは展開します。若者にはほとんどない金融資産はたっぷりある高齢者。掛け金よりはるかに多い年金支給額。医療費の大半を使いながら、現役世代の3割負担ではなく1割の負担で、外来を埋め尽くす高齢者。本当は弱者ではなく、モンスター・シルバーではないかと訴えています。そして本当の弱者であり、高齢者の奴隷であるのは若者世代ではないかというのです。老後に不安のある高齢者は社会保障費の動向に敏感です。それを充実させようとする政党を高い投票率で応援し、“弱者”である高齢者の応分の負担を求める政策は実現できないよう監視します(事実、政権交代前はあれほど後期高齢者医療制度を批判し、直ちに廃止を約束した現政権は、代替案の70~74歳の窓口負担が高くなる法案を提出したら4月の統一地方選挙は戦えないと、後期高齢者医療制度の廃止を1年延期しました。なんという節操のない政党でしょう)。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その12)
マンガ「若者奴隷時代」(山野車輪著、普遊舎MOOK)が若者に一定の支持を得ているとの新聞記事を見て、私も読んでみました。著者は団塊2世代の1971年生まれ。嫌韓流現象を巻き起こし、多くの人々に韓国の本当の姿について興味を持たせることに成功した方ですが、この「若者奴隷時代」は若者が日本の高齢者に対して嫌悪感を持ち始めているというショッキングな筋書きです。内容をかいつまんで紹介します。
日本はバブル崩壊後、経済低迷が続き新興国との価格競争に勝ちたいと海外に工場を移転します。海外で働く(雇用が守られる)日本人は管理職などごく少数で、国内の職が減少するため就職率は低下し、雇用は悪化の一方。ストーリーの中では50万円で内定が取り消され、困った学生はわざと留年して翌年の就職活動にかけるそうです。日本の企業はなぜか新卒採用にこだわるからです。この就職氷河期、大学生は今年も現在50%台後半の就職率です。この一回きりの就職のチャンスを逃すと非正規雇用となりやすく、もし企業の業績が悪いと、生産調整により派遣切りとなり年収200万円以下のワーキング・プアとなる確率が高まります。生活保護水準以下の賃金でも働かざるを得ないことも多いと訴えています。非正規雇用は無年金・医療保険もなく、雇用を切られると寮を追い出され、インターネット・カフェ難民とならざるを得ません。バブル時代だけでなく大量定年を見越して求人が多かった時代もついこの間だったのに、生まれてくる時代が少し違っただけでこのような目に遭うこの時代はおかしくないですか、と訴えているのです。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その11)
3~4年前放映されたNHK土曜ドラマ「スロースタート」では引きこもりやニートの問題を取り上げています。心を閉ざした若者達は、皆、能面みたいな表情でうつろな眼をしています。自分の世界に閉じこもり、他人との交わりを拒んでいます。これで生きているっていえるでしょうか。小さい頃から他人と交じり合い、譲り合って生きて行く術を学び取る機会を奪われた子供には責任はありません。こんな環境を作り出した親たちに、今、反省と是正が必要なのではないでしょうか。
櫻井氏はさらに続けて、
「愛情表現は日本経済の復興と共に、自然の流れの中で、お金や物を与えるという形で行なわれました。その結果、子供は人の幸せはお金や物で測ることができるということを実感するに至りました。お金や物は、人間の心を豊なものにしてくれる手段であるのに、いつのまにか、それ自体が目的となってしまいました。こうした問題が3世代かけてここまで来た道ならば、戻るのにも3世代かかります。正しい日本を取り戻すために、日本は息の長い子育てプロジェクトに取り組んでいかなければなりません」と述べています。
さて、皆さん。「利己主義がはびこる日本の若い世代」という結果を作ってしまった原因としての数々の誤解や判断ミスについて、長々と私が読みかじった文章のご紹介と私見を述べさせて頂きました。多くの方々がこの教育問題に関して危機感をお持ちであると思います。どうすれば個々の力を合わせて、親としてのあり方を問い直す大きな運動に繋げられるか皆さまのご意見を頂戴したいと思います。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その10、「自由保育」の好き勝手)
櫻井氏はさらに、わが国が自由保育という考え方を良しとするようになった理由について考察しています。
「1960年代から70年代に自由保育の考え方が欧米から入ってきました。それは戦前の価値観への反動が基調となった戦後の教育の中で熱烈に支持されていきました。しかし、その欧米諸国は、子供を善なる存在だと見なして自由にさせることは誤りであると気づき、過去20年強、一大方針転換をしたのです。そして、日本だけが、自由放任が良いという考え方でそのまま教育を行ってきました。この傾向に拍車をかけたのが少子化です。大事な一人っ子、もしくはふたりっこを育て、自分の子供のためには何でもしてあげるという親が増えてきました。子供のために望みをすべてかなえてやる。どんな学校にも入れてやって、個室も、パソコンも、テレビも子供専用のものを与える。こうして子供はこの世の中が自分の為に存在していると思うような環境に置かれてしまいます。子供は足らざることの不自由を体験することもなく、全く唯我独尊の価値観を身につけていきがちです。これでは見知らぬ人と折り合って、譲り合いながら暮らしていく知恵を身につけることなど、できないのです。謙虚になり、他人への優しさを実践していく賢さを身につけることなど及ばないのです。意図せずしてこんな環境を作り出したのが、いまの日本の豊さです。」と述べています。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その9、「自由保育」の好き勝手)
ジャーナリストの櫻井よしこさんは保育園でまかり通る「自由保育」の好き勝手と題して以下のように指摘しています。
「いま公立の保育園では自由保育の旗を掲げています。大変耳に心地よい言葉です。これは子供が善なる存在で、前向きであるという性善説に基づいていると思います。自由にしておくのが一番いい。叱ったりする事はよくない。親がいろいろなことを押し付けるのもよくない。子供を自由にするのが一番だという考え方です。しかし、実際の保育園でみる光景はまるで保育園が老人ホームになったようです。自分のすきな相手とだけ集まってこもごもお話をしています。以前のように団体でお遊戯をしたり、歌を歌ったり、かけっこをしたりということをなかなかさせることができません。ですから子供は自分と気のあった人とだけしか遊ばないし、話さないのです。しかし、これは人生で初めて、今まで見たこともない他人と時間と空間を共有するという社会的な訓練にはまるで役に立ちません。気の合わない子供と何とか折り合いをつけることを学ぶ機会を奪っていることになります。」と自由保育の自由という耳に心地よい言葉に潜む恐ろしさを指摘しています。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その8 アタッチメント)
では、子供の教育過程の中でどのような誤りがあったのでしょう。日常あまり気にもとめていないことですが、実に多くの誤解や問題点があるのです。わたくしが調べ得た範囲でご紹介をしてみたいと思います。
先日紹介致しました田下先生は小学生暴力をアタッチメントの観点からとらえておられます。要約してご紹介します。
「鳥類以上のすべての動物の仔は自分に危機が迫ったとき、誰が守ってくれるのか、誰の元へ逃げていけばいいのかを分っている。親もどの個体を保護するのかを識別している。保護し保護される相手が確定すると、仔に本能として内在している愛着行動のシステムを起動する。その概念をアタッチメントという。カルガモのひなが母ガモの後を追うのがそれである。この過程は基本的には人間も動物と同じである。2歳半から3歳でその基礎が形成されるが、人間ではアタッチメントは生涯にわたって存在し、その対象も両親から友人、教師、異性へと広がっていく。アタッチメントは人を信じることや、愛する事の基調となる。親の都合によってすぐ変わる、本気でない養育姿勢はアタッチメント形成不全を発生させる。結果、子供は誰が自分を保護してくれる人なのか判定に確信が持てず、人間関係は浅薄で、その場限りになりやすい。必要なアタッチメントが形成されないと、その相手は子供の攻撃対象となる。小学生暴力の根源はここにある。」 と書いて親の都合によってすぐに変わる、本気でない養育姿勢を小学生暴力の根源と強調されておられます。
最近の日本、何かおかしくないですか?(その7、子供の部屋には鍵は掛からないようにすること)
わたくしが敬愛する北海道旭川市の小児科医・田下昌明先生は産経新聞のコラムの中で同様の意見を述べておいでです。そのコラムを要約し、紹介致します。
小学校入学を機に子供に部屋を与える場合もあろうが、鍵は掛からないようにすること。これは子供の人権を無視しているのとは違う。ただし、親でもその部屋に入りたい時は、ちゃんとノックして入室の許可を取るのは当然のことだ。それでも鍵がかかっていなければ、子供はやはり「いつ誰に開けられるかわからない」と思っているので、自然に「いつ誰に見られても恥ずかしくない」生活をするようになる。日常生活で子供の法を守る精神をつちかうためには「誰も見ていない場所」や「誰も見ていない時間」をできるだけ与えないようにするのが肝心だ。それには神仏の存在を親が認めることだ。そうしてできることなら信ずること。もし神仏の存在を親が認め、信ずるなら子供にとっても親にとっても、誰も見ていない場所や時間はたちまち消えうせてしまう。いつでも、どこでも、神様や仏様が見ていらっしゃるからだ。と述べておられます。
さて、戦後62年が過ぎ、今年は戦争を知らない子供たちが会社の定年を迎える年となりました。最近になって、教育基本法を変えようという気運が生まれた背景には戦後の教育に対する失望感があります。小学校では学級崩壊が起こり、中学・高校では暴力といじめ・不登校、そして一時期17歳の犯罪が騒がれました。最近では小学生による同級生殺人事件、直近の高校生による母親殺しや「親父がり」など悲惨な報道が後を絶ちません。戦後、わたしたちは教育に大きな期待をかけてきました。親たちは教育にかける費用を惜しまず、より良い環境作りのために奔走しています。子供達も遊びたい気持ちを殺してまでも、夜遅くまでの塾通いやお稽古事に駆り立てられています。にもかかわらず、わたくし達の目の前の社会の風景は明らかに期待を裏切るものです。学力も基礎体力も著明に低下し、若者達は、自分の夢を持ち得ず、惰性と荒廃の道を進んでいます。思いやりも自己責任も喪失したかのような日本の戦後の教育は成功だったとはいえないと思います。