「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その12 続・それで勝てると思っていた)

太平洋の覇権をかけて日米が激突したミッドウェー作戦では、日本の連合艦隊が戦力的には優勢でした。緒戦のハワイ作戦では航空母艦は撃ち漏らしたものの、米太平洋艦隊の戦艦群はほぼ壊滅し、さらに日米初の空母機動部隊が激突した昭和17年5月の珊瑚海海戦では正規空母レキシントンを撃沈し、ヨークタウンをも大破していました。この時点で、太平洋における日米の空母機動部隊のトン数、作戦稼働可能な飛行機の数は、日本が上回っておりました。この大戦において最初で最後の戦力的優位に立っていた僅かな期間でありました。次の目標は中部太平洋に孤立するミッドウェー諸島です。そこでは、日本軍の来襲を予測し、対空砲火、等の防御機能を高めて備えていました。本土からはるかに遠く、孤立する島を攻略していくために有効な作戦は、戦争の後期に米軍がとった作戦そのものである大艦隊による艦砲射撃と航空部隊による上空からの制圧です。当時の主力戦艦である「大和」「武蔵」の主砲の射程距離はなんと20000メートル、見えないところからとてつもなく破壊力のある巨弾が飛んでくるわけで島の守備隊からみてお手上げの状態であったはずです。しかし、日本海軍はこの作戦をとらず、実際のミッドウェー海戦では「大和」を中心とする戦艦部隊は機動部隊のはるか後方で、前線の空母機動部隊が一瞬のうちに壊滅され、大きなターニングポイントとなった海戦の作戦中止を命令したそのときも、はるか後方から帰還せざるを得なかったわけです。「大和」の主砲は期待された大きな戦果を挙げる絶好のチャンスをここで封じられてしまいました。「大和」かわいさのために後方に配置した、など様々な解釈がなされていますが、その真相は私には分かりません。