廃止でいいいの?後期高齢者医療制度(その4)

 ご存じの通り終末期医療に費やされる医療費はけた外れに高いものです。月に数百万円を超えるレセプトも少なくありません。しかし、お金の問題ではなく、寿命が尽きようとするとき「自分だったらこういう死に方がしたい」という本人の希望がかなえられていないことが一番の問題だと思います。人生の終え方を決める主人公の希望が通らず、家族や医療機関のメンツを優先する医療がさも当然のように行われている、こんな終末期医療は変だとは思いませんか。「自分の家で家族に見守られながら安らかに死にたい」と思う高齢者が過半数を占める現在、それをかかりつけ医に相談する行為のどこがいけないのでしょうか。
 早急に「命の公証役場」を設置すべきであると考えます。元気で暮らしているのに突然襲ってくる生命の危機に対しては出来る限りの治療をお願いするけれど、周囲から見て終末期で寿命が長くないなら延命治療は望まず、尊厳ある死に方をしたいと、私ならば登記するでしょう。多くの高齢者が普段から望んでいる終末期医療の在り方を急変時に証明する方法がないから、救急医療の現場は命が尽きようとする身体に鞭打つようなことをせざるを得ない。11/12の紙面は2006年3月発覚した富山県射水市民病院の延命治療を中止した2人の外科医を不起訴処分にしたと伝えています。死亡との因果関係の立証が難しいうえ、遺族が処罰を望んでいないことを考慮したとみられる(読売新聞)、とありました。このお二人は殺人容疑で書類送検されたのです。この国はいつまでこのような状況を放置しておくつもりなのでしょう。法曹界がリードしてもっと国民的議論を積み上げる必要があるのではないでしょうか。

廃止でいいの?後期高齢者医療制度(その3)

終末期相談支援料という報酬も問題になりました。「はやく死ねということか」と怒りで顔が引きつれたお年寄りの顔が忘れられません。しかし「死ぬ時は家で死にたい」「意識もないのに多数の管を入れられてまで延命して欲しくない」と同時に望んでおられる高齢者はたくさんおられます。回復の見込みの薄い場合、延命治療を行うかどうかについて前もって確認した場合医療機関に支援料が支払われる制度ですが、野党(当時)政治家の露骨な非難、一部マスコミのまるで鬼の首を取ったような恣意的な報道によって一時凍結となってしまいました。
すべての人にとって絶対に避けられないのが死です。寿命が尽きようとしている身体にスパゲチィみたいに多くの管を通し、全身ぶくぶくになり顔も変わってしまうほど水を入れ、挿管して生命維持を図る治療に何の意味があるのか。心停止に至っているのに「東京にいる息子にひと目会わせるまで」との家族の希望を入れて身体に馬乗りになって、肋骨がバキバキ折れるほどの心マッサージを続けることをいつまでも是としていてよいのか。人の死を医療の敗北とする終末期医療は一体いつまで続くのでしょうか。
永田町を怒りに満ちた表情で抗議を続ける高齢者の映像を見る度、新しい制度の本来の意味を国民にわかりやすく説明し理解させる責任をもつ部門や顔はどこの誰なのか、疑問に思います。国民一人ひとりにとって極めて大事な問題であるのに、真の国民的議論が必要であるはずなのに、政争の具にされている。これで先進国といえるのか本当に残念です。