天災それとも人災?その13

5.歴史に何も学ばなかった日本人(昭和史 1926-1945 半藤一利著、平凡社、及び   あの戦争と日本人 半藤一利著、文芸春秋より)
 昭和14年5月中旬から8月末、満州西北部のノモンハンを中心とする広大な草原で旧関東軍プラス旧満州国軍と、極東旧ソ連軍プラス蒙古(モンゴル)軍が大激戦を行いました。この戦いをノモンハン「戦争」といわず「事件」としているのは、互いに宣戦布告しているわけではなく、お互いの領土内侵略をめぐる単なる国境紛争でしたが、両軍とも大軍を出して戦うことになりました。戦闘は日増しに拡大し、日本側は58,925人が出動して戦死、戦傷、その他19,768人と1/3が死傷しました。普通、軍隊は30%がやられれば壊滅状態でそれほどの大損害を受けました。旧ソ連軍も大きな損害を受けるわけですが、旧ソ連軍が最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるいわゆる近代戦を仕掛けたのに対し、旧日本軍は銃剣と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺たる結果となりました。当時の日本兵の装備は、明治38年にできた三八式歩兵銃、当時ですら35年も前からある旧式の装備で、近代兵器で身を固めたソ連の兵隊と立ち合ったのです。
戦いが終わって、「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。教訓として、これからもますます精神力を鍛える必要がある、ついてはもうひとつ水準の低い火力戦の能力を向上させた方がいい。約2万人が死傷した負け戦の戦訓がこれだけで済ませられました。

天災それとも人災?その12

軍艦を別にすれば原子炉を動力源とする船を作った国は少なく、旧ソ連、アメリカ、西ドイツ(当時)に続く世界で4番目であったそうです。むつはあわれにも16年間にわたって日本の港をさまよいました。当時の社会党は原子力船から漏れる放射能が陸奥湾に溜まると原子爆弾なみの爆発が起こりうるなどというようなデマを流しましたし、マスコミも放射能漏れを不必要に騒ぎ立てました。むつに搭載された船舶用原子炉は諸外国のそれと比べて性能は良く、単に遮蔽に問題があっただけで、その改修後は不具合は指摘されていませんでした。しかし、これによって日本は原子力船の製造は不可能として、永久に開発を放棄しました。
しかし、みなさん。本当にこれでよかったのでしょうか。もともと調査研究用の実験船が少量の放射線漏れが出たためにその開発を永久に放置した結果、どんなことが起こっているでしょうか。
日本は資源に乏しく、四方を海で囲まれる海洋国家で、貿易・通商で生計を立てる国です。未来永劫これは変わりません。核燃料を一回搭載すれば何年も無補給で動ける船を開発改良すれば、今後の船舶輸送に大きな恩恵を与えたことでしょう。技術を転ずれば原子力潜水艦の開発にも応用できたでしょう。しかしこれを永久に放棄した結果、原子炉動力船は生まれなくなった。東日本大震災が起こり、中国やロシアは日本に対し医療救援隊の派遣を早速申し出てくれました(その規模は四川大地震時に日本が出した救援隊と比べるとはるかに小さいものではありましたが)。しかし、この両国は自衛隊24万人中10万人が東北に救援で出ているときの日本の国防がどうなっているのか、この大わらわの最中にテストを企てているのです。まさに、右手で握手、左手にハンマー。ロシアの軍用機が領空侵犯すれすれの空域に出現し、航空自衛隊は度々スクランブルをかけました。中国からは尖閣列島付近に例の「魚政」が出現、日本の海上保安庁の巡視艇では防げない領海侵犯、それは原子力潜水艦によるものです。日本の「どんガメ」(失礼)海上自衛隊のディーゼル艦ではとても追いつけない速度、そしてとても潜れない深度を、矢のような速度で疾走する侵犯艦、これに対し体を張って領海侵犯を防ごうとする自衛隊員の無念さを皆さん、理解できますか?本当に原子炉動力船を放棄してよかったのでしょうか。
そんなわけで今回の原子炉の事故を何とか日本の科学技術力で解決してほしい、安易に原発潰しに加担しないで長期的かつ冷静な視点でご判断いただきたいと切に願うところです。