わたくしが敬愛する北海道旭川市の小児科医・田下昌明先生は産経新聞のコラムの中で同様の意見を述べておいでです。そのコラムを要約し、紹介致します。
小学校入学を機に子供に部屋を与える場合もあろうが、鍵は掛からないようにすること。これは子供の人権を無視しているのとは違う。ただし、親でもその部屋に入りたい時は、ちゃんとノックして入室の許可を取るのは当然のことだ。それでも鍵がかかっていなければ、子供はやはり「いつ誰に開けられるかわからない」と思っているので、自然に「いつ誰に見られても恥ずかしくない」生活をするようになる。日常生活で子供の法を守る精神をつちかうためには「誰も見ていない場所」や「誰も見ていない時間」をできるだけ与えないようにするのが肝心だ。それには神仏の存在を親が認めることだ。そうしてできることなら信ずること。もし神仏の存在を親が認め、信ずるなら子供にとっても親にとっても、誰も見ていない場所や時間はたちまち消えうせてしまう。いつでも、どこでも、神様や仏様が見ていらっしゃるからだ。と述べておられます。
さて、戦後62年が過ぎ、今年は戦争を知らない子供たちが会社の定年を迎える年となりました。最近になって、教育基本法を変えようという気運が生まれた背景には戦後の教育に対する失望感があります。小学校では学級崩壊が起こり、中学・高校では暴力といじめ・不登校、そして一時期17歳の犯罪が騒がれました。最近では小学生による同級生殺人事件、直近の高校生による母親殺しや「親父がり」など悲惨な報道が後を絶ちません。戦後、わたしたちは教育に大きな期待をかけてきました。親たちは教育にかける費用を惜しまず、より良い環境作りのために奔走しています。子供達も遊びたい気持ちを殺してまでも、夜遅くまでの塾通いやお稽古事に駆り立てられています。にもかかわらず、わたくし達の目の前の社会の風景は明らかに期待を裏切るものです。学力も基礎体力も著明に低下し、若者達は、自分の夢を持ち得ず、惰性と荒廃の道を進んでいます。思いやりも自己責任も喪失したかのような日本の戦後の教育は成功だったとはいえないと思います。