3月12日午前1:00過ぎ、1号機の炉内圧力は設計値の1.5倍に達し、原子炉は危険な状態になりました。もはや、発生する蒸気のベントしか手がなくなりました。ベントとは高濃度の放射性物質を含む炉内の水蒸気を圧力調整弁により意図的に外部に放出して原子炉の崩壊を防ぐ、いわば非常時の「禁じ手」といえるもので、過去日本で行われた例はありません。午前1:30、弁を開けようと努力しますが、もはや電源は失われ、自動から手動へ、暗闇で作業は進みません。1号機の格納容器圧力は明け方には設計値の2倍を超えていました。1号機のベントに踏み切ったのが12日午前10:17、5時間後1号機は水素爆発し、建屋が吹き飛びました。
3月11日夕方には必要性が認識されていた1号炉のベントは実行までになぜ15時間もかかったのでしょうか。地震発生当時、東電の勝俣会長は北京に、清水社長は関西に出張中でした。地震で空港が使えず、鉄道もダメ、道路も渋滞し、トップ不在は地震発生から約20時間に及びました。その間、東電の現場は重大な決断を次々に迫られました。ベントをすれば放射能汚染の可能性があり、企業への社会的責任を問われる重大事態となり、多額の賠償が発生する可能性があります。炉心への海水注入も廃炉覚悟の行為で、廃炉となれば1基1000億円規模の費用が発生します。遠い中国から、関西から、携帯電話で指示が可能だったのでしょうか?
(天災それとも人災? その1)
今日は5月10日、あの東日本大震災から2か月が経過しようとしています。
この度の大震災の犠牲となられた皆様のご冥福を謹んでお祈りし、被災者の方々に心からお見舞いを申し上げます。
ちょうどひと月前の4月10日、私たちの所属する国際ロータリー2700地区大会の特別記念講演は櫻井よしこさんの「日本よ、勁(つよ)き国となれ」というタイトルでしたが、その殆どが大震災と福島第一原発事故に対応すべき政府の不手際を問題視する内容でした。また、その日は統一地方選挙の前半戦の選挙日にあたり、翌日の朝刊は選挙結果の報道を控えておりましたので、大震災1か月を振り返り新聞各紙はその総括を載せていました。その中で、讀賣、日経と産經新聞の記事は強く心に残り、櫻井氏の論調にも共通するものでした。現在、管直人内閣の失政が際立って報道され、与党出身の西岡武夫参議院議長から「やるべきことをやっていない。今の状態で国政を担当するのは許されない」と2度までも異例ともいえる首相の進退に言及されています。大震災という歴史的な国難に対して求められる一国のリーダー像について、過去のわが国のリーダーと海外のリーダー、さらには最近読んだ「昭和史」(平凡社)の半藤一利氏の日本を歴史的な国難である敗戦と焦土に導いてしまった軍の高級将校のそれと対比しながら述べてみたいと思います。
1. 福島第一原発 一か月の動き(一部讀賣新聞から)
平成23年3月11日午後2時46分、1000年に一度といわれるマグニチュード9.0の大地震が東北地方太平洋沖で発生しました。地震発生の直後、官邸、経済産業省原子力安全・保安院(以下保安院)、東京電力(以下東電)も安堵感につつまれていました。福島原発の運転中の1~3号機は緊急停止し、バックアップ用の非常用ディーゼル発電機も起動したと伝えられていたからです。しかし、その後の津波で非常用電源13大中12台が損壊し、原子炉冷却機能が失われました。ただちに、東電は電源車をかき集め現地へ向かわせましたが、道路は渋滞し、現場近くの道路は寸断され前に進むことはできませんでした。さらに準備不足が露呈します。接続用の低圧ケーブルが足りなかったのです。12日午前0:00を過ぎても電源は回復しませんでした