天災それとも人災?その15

 6.日本人の通弊(幕末史、半藤一利著、新潮社より)
太平洋戦争の時もそうでした。日本人は往々にして、確かな情報が入ってきていても、起きたら困ることは起きないことにしようじゃないか、いやこれは起きないに違いない。そうに決まっている、大丈夫、これは起きないとなってしまうのです。昭和二十年八月のソ連による満洲侵攻です。シベリア鉄道を通ってソ連の兵力が、どんどんソ連国境に集結していることが、その年の春位から分かっていました。日ソ中立条約の一年後の破棄は四月に既に言ってきていますから、攻撃の可能性はあるのではないかということは、軍の中枢部のたいていの人は予測できたでしょう。とりわけ参謀本部が分からないはずはないのですが、「今ソ連に攻めてこられたらお手上げだ。処置なし。」、だから起こっちゃ困るんだ、起こっちゃ困ることは起きないのではないか、いや起きないのだ、というわけでソ連は来ないことに決めたのですね。八月九日午前零時をもってソ連が一気に満洲の国境を越えて攻めてきた時、参謀次長・河辺虎四郎中将は「ああ、我が判断は誤てり。」と日記に書きました。判断の誤りではなく、そういう風に思いたかっただけなのです。
自分たち日本国民を守ってくれるはずの満洲軍が我先にと逃げ出し、ソ連軍に蹂躙された入植者たちの悲劇は、想像を絶するものです。嗚呼、これも人災。

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天災それとも人災?その14

昭和14年8月にこの戦いが終わって二年半がたたないうちに、日本は太平洋戦争に突入します。低水準の火力能力がわずか二年半で向上するはずはありません。ノモンハン事件の本当の教訓は全く顧みられなかったわけです。それどころか、この負け戦を直接指揮した作戦参謀の一人、服部卓四郎中佐は、後の昭和19年7月にサイパン島が陥落し、日本は見る影もなく撃ち破られたとき、参謀本部作戦課長であった同大佐は「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」といったそうです。ノモンハンの時にすでにわかっていたではないかと言いたくなるのですが、いずれにしても日本陸軍はこれだけ多くの犠牲を出しながら何も学びませんでした。口径が小さくて弾の飛ばない三八式歩兵銃は相手の自動小銃と比べて明らかに劣っているのに、ノモンハンの“反省”も活かされず、その後の太平洋戦争でも広く使われました。三発撃つと時間のかかる新しい弾込めをしなければならない、つくる能力がなかったわけではないのに、なぜ日本は新しい銃をつくらず最後まで三八式歩兵銃で戦ったのか、半藤氏は旧陸軍の人に理由を聞いたことがあるそうです。その答えは「実は三八式歩兵銃は四十年間に一千万挺も作った。三八式歩兵銃の弾丸も山ほどどころではなく、いくら使っても使いきれないほど作ってしまった。これがある間はとにかく使わなければならなかったんだ」と。そんなばかな考えで国家の運命を賭した戦争に突入したのですかと、半藤氏は思わず天を仰いだそうです。嗚呼、これも人災。