天災それとも人災?その17

ところが、7月の20日から、400番台でも、500番台でも、700番台でもない、600番台の新しい航空隊がちょくちょく日本に来ると。「おや、おかしいな?」と思った人がいて、これを丁寧に追っかけていったのだそうです。そしたら、その飛行機の番号がほかの飛行機とは違う。ほかのB29は25V、425Vとか二桁三桁なのに、この新顔は一ケタの2V625とか、5V655、8V632というようなコールサインで飛んでくる。しかも、一機で飛んでくる—–何か新しい部隊が出てきたのだろうか、と思っていたようです。陸軍参謀本部情報部第二部の堀栄三少佐は600番台の正体不明機を特殊任務機と呼び、その情報は参謀本部の上層部まで伝えられていました。
陸軍参謀本部は米国が原爆開発を推し進めていることを早くから知っていました。そして、昭和18年春、東条英機陸軍大臣は米国の原爆開発は相当進んでいると判断し、日本も後れを取らないようにと理化学研究所の仁科芳雄博士らの研究陣に開発を急がせています。しかし、昭和20年6月末には空襲で原爆の開発を続行する環境ではなくなったため、陸軍上層部は、その開発を断念しました。そして、原子爆弾開発に関し「米国も為し得ざるものと判明せり」と全く根拠もなく決めつけていました。大きなプロジェクトを止めるに当たり、そしてそれが日本にとって危機的な状態をもたらせることが明白なため、止める理由付けが必要になっただけのことでした。起こっては困ることが起こると、決まって日本の指導者は起こらないものと決め付ける習性があるのはこの一件でも明らかです。

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天災それとも人災その16

(あの戦争と日本人 半藤一利著、平凡社 2011年8月放送 NHKスペシャル 原爆投下-活かされなかった極秘情報-、ウィキペディアより)
 大戦末期の昭和20年7月、米国はウラニウム235爆弾、プルトニウム爆弾の原子爆弾2個を実戦配備していました。その少し前の5月29日には占領したテニアン島にB-29爆撃機15機が飛来し、原爆を投下するための訓練を8月までにたっぷり積んでいました。「カボチャ」と当時暗号名で呼ばれていた4.5トンのすごくでかい爆弾をただ一個だけ積んで、銃座を外したり防備を外したりしてできるだけ軽くして、太平洋上を遠くまで飛んでいく訓練を積んでいました。原爆部隊は編隊を組まないで一機で飛びます。護衛の飛行機もつきません。
 実は、日本陸軍はこのカボチャ搭載機について、かなり調べていたといいます。読売新聞が出した「昭和史の天皇」に詳細が書かれていますが、陸軍中央通信調査部というのが調布にあって、日本にやってくるB-29を丹念に観察しているのです。昭和20年7月の時点で、B-29はマリアナ諸島に600機いてサイパン島にいるのはみんな400番台の番号をつけている。415とか426とか。グアム島にいるのは500番台で、テニアン島は700番台の飛行機だと一覧表を作っていました。だから、B-29相互のコールサインを無線でキャッチして718なんていうと、ああ、これはテニアン島から来ている、と分かっていたのです。