「ボックスカー」は島原半島を経て、長崎に向かっていました。その飛行は日本側にも確認されていました。当時長崎県大村市にあった紫電改を主力とする戦闘機部隊のパイロットであった本田稔さんは飛行場で待機していました。紫電改は上空10000メートルまで昇れる数少ない戦闘機だった。しかし、長崎に向かっているB-29が原爆機であるという危機的状況にあるのが分かっていながらなぜか部隊に出撃命令は出されませんでした。本田さんは言います。「確かにB-29は撃ち落すのが大変困難な爆撃機でした。しかし、自身撃ち落した経験もある。もし、出撃命令が出ていたら、そして原爆投下の恐れが強いのが分かっていたら、体当たりしてでも落とそうとしただろう」。後から客観視すれば、コールサインが捉えられ、原爆投下が危惧され、その行動が日本国内で随時追跡されていたわけですから、銃座をはずし、丸腰の状態で重い原爆を抱えている「ボックスカー」には作戦成功の可能性はスウィーニーの懸念通り極めて少なかったでしょう。
このころ軍の上層部は緊急の招集がかかっていました。皇居では最高戦争指導者会議開かれていました。戦況の悪化をもたらす事態が起こっていました。ソビエト参戦が伝えられていたのです。ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をするのか、決めかねていたその会議の席で、陸軍の梅津美治郎参謀総長ら陸軍の幹部は広島に原爆が落とされてもなお戦争の続行は可能であるとして次のように発言しています。「原子爆弾の惨禍が非常に大きいのは事実ではあるが、果たして米国が続いてどんどんこれを用いうるかどうか疑問である」。第2の原爆投下はないだろう、原爆機が長崎に向かっていたその時にも、根拠のない主張を繰り返していました。
天災それとも人災?(その20)
8月9日未明、再び広島のときとまったく同じあのコールサインV675で呼ばれるB-29がテニアン島から発進したことがキャッチされました。どこだかわからないけれど数時間後には日本国内のどこかに落とされる危険が大きいと判断されました。この重大情報は陸軍参謀本部梅津美治郎参謀総長にも報告されました。長崎への原爆投下の5時間も前に、原爆搭載機が日本に向かっていることが参謀本部中枢まで報告されていたのです。緊張は高まっていました。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機とは会合できましたが、写真撮影機とは合流できず、40分が経過したため、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにしました。午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし、計3回の投下目標確認に失敗し、この間約45分間の時間と燃料を使ってしまいました。残燃料に余裕がなくなったばかりか、「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えました。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱しました。