大村の戦闘機部隊のパイロット本田稔さんが、「こんなことを許していたらまたこのようなことが起こるのではないですかね」と嘆かれた通りのことが、昨年3月に起こってしまいました。2011.12月27日の読売新聞はトップニュースとして、東京電力福島第一原子力発電所事故に関する政府の事故調査・検証委員会の中間報告を発表したと載せています。それによりますと、中間報告は東京電力や政府の事故対応の不手際を明確に指摘し、原発事故の「人災」としての側面を浮かび上がらせています。政府の危機管理全般の問題点には踏み込み不足で、今年夏の最終報告に向け、当時の管首相らの聴取による検証が課題となるとしています。政治家のヒアリングについては、時間の経過とともに記憶が薄らぐことは避けられないし、政治家1人当たりのヒアリング回数は最小限に止める予定とすれば、またまたあの方のイラついた顔が画像に出てくるだけで、何の本質的な解決にもならないと考えるのは私だけでしょうか。
2012.3月1日の新聞には内閣府公文書管理委員会が東日本大震災に関する10組織の会議で議事録が未作成だった問題について、「震災で多忙だった」、「作成義務は課せられていない」という理由を挙げ、記録作成への意識の低さが改めて浮き彫りになったと伝えています。
半藤一利先生が指摘する歴史に何も学ばなかった日本人、失敗学で有名な東大名誉教授の畑村洋太郎先生が指摘する見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない日本人、記録が詳細な近代だけを見ても、我々日本人の大きな失敗をするパターンはおおよそ似ています。日本人の遺伝子が大きくは変化しないのであるならば、歴史に学び、数々の失敗に学ぶ、これこそがこれからのリーダーに欠かせない資質であると思います。私も職員約2800名のトップとして常に心がけて参りたいと考えます。 (天災それとも人災?完)
天災それとも人災?(その22)
会議が続いていた11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。またしても空襲警報すら出されませんでした。原爆投下の5時間も前に軍の上層部がつかんでいた情報が、なぜ活かされなかったのか。陸軍参謀本部上層部に情報を伝えていた堀栄三少佐は長崎の原爆に関してはほとんど語っていません。ただ一つ、短いメモの中で「8月9日もコールサインを傍受したが、処置なし。後の祭りとなる」と書き残しています。
原爆が落とされた後、大村の戦闘機部隊のパイロット本田稔さんは次々と運び出される人々を病院に運ぶ仕事を命じられていました。「こんなひどいことが世の中に許されるのか、私は軍人として情けない。申し訳ない」。せめて空襲警報さえ出ていたら、またも無防備な人々の上に投下された原子爆弾。5時間も前に軍の中枢がつかんでいたことを初めて聞かされた本田稔さんは「なんで出撃命令を出さなかったのか。5時間もあれば十分対応が出来ていた。これが日本の姿ですかね、こんなことを許していたらまたこのようなことが起こるのではないですかね」。
ソビエト参戦、苦悩と混乱を差し引いても活かされなかった極秘情報、二度にわたって悲劇を繰り返した国を導く者の責任の重さを今の時代に問いかけています。