会議が続いていた11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。またしても空襲警報すら出されませんでした。原爆投下の5時間も前に軍の上層部がつかんでいた情報が、なぜ活かされなかったのか。陸軍参謀本部上層部に情報を伝えていた堀栄三少佐は長崎の原爆に関してはほとんど語っていません。ただ一つ、短いメモの中で「8月9日もコールサインを傍受したが、処置なし。後の祭りとなる」と書き残しています。
原爆が落とされた後、大村の戦闘機部隊のパイロット本田稔さんは次々と運び出される人々を病院に運ぶ仕事を命じられていました。「こんなひどいことが世の中に許されるのか、私は軍人として情けない。申し訳ない」。せめて空襲警報さえ出ていたら、またも無防備な人々の上に投下された原子爆弾。5時間も前に軍の中枢がつかんでいたことを初めて聞かされた本田稔さんは「なんで出撃命令を出さなかったのか。5時間もあれば十分対応が出来ていた。これが日本の姿ですかね、こんなことを許していたらまたこのようなことが起こるのではないですかね」。
ソビエト参戦、苦悩と混乱を差し引いても活かされなかった極秘情報、二度にわたって悲劇を繰り返した国を導く者の責任の重さを今の時代に問いかけています。