太平洋戦争初期の昭和17年6月、中部太平洋ハワイ諸島北西に位置する米領ミッドウェー諸島周辺海域で行われた日米の機動部隊の激突であるミッドウェー海戦で、日本は主力空母4隻と多くの熟練パイロットを失う大敗を喫し、この海戦を境に以後戦局は米軍優位となったターニングポイントの作戦として有名です。著者の一人で、作家の澤地久枝さんがミッドウェー作戦を題材とした作品「滄海よ眠れ」の取材を昭和54年から始めたそうですが、旧海軍軍人からまるで国賊のようにひどく叩かれたそうです。
ミッドウェー海戦について、アメリカの有名な戦史家ウォルター・ロードの本でベストセラーになった「逆転」がある。ここにも「運命の5分 fatal 5 minutes」という、あと5分あったら日本海軍は勝っていた、という記述があります。日本側でも(中略)この話がずーっと生きているのです。私も疑わずに調査を始めたのですが、戦闘詳報をいくら調べてみてもそうはならない。5分にはならないのです。例えば雷撃機の爆装を海・陸・海と取り替えるために何分間かかるか。そんな短い時間にはできないのです。それでもこの説はずっと残ってきていて、私はまったく孤立しました。(澤地久枝氏)(中略)
海軍は必ずしも一枚岩ではなかったのですね。そうなんですけど、海軍の悪口に対しては一枚岩になる。澤地さんが、「運命の5分間」はなかった、つまり、自分たちの作戦失敗を糊塗するための作文であることを発表されたときには、奇怪なほどものすごく反発するのですね。(半藤一利氏)(中略)
でもやはり、事実というのは一つなんですね。解釈というのはいろいろあると思うのですが、事実は一つなので、それをきっちり詰めていくとやはり、見えてくるものは通説とは違うのではないか、ということがたくさんあるのです。(中略)そういうふうに、海軍の人たちには、海軍を守りたいという気持ちと、やはり事実を残したいという気持ちの中で一つの葛藤があったのですね。それで、晩年になってやはりどこかで残しておきたいという気持ちが、反省会という形でまとまったのだと思っています。(戸高一成氏)
「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること (その6 海軍反省会の生い立ち)
戦争は悲惨なものであり、家族を失ったり人に話せないような悲しみのどん底に追いやられた敗戦国民の多くは、その話題には沈黙を保ち、記憶から遠避けたいとするのでしょ
う。しかし、長い長い時間が経過し、人生が終盤を迎えるころ、自分たちに残された時間に限界を感じるにつれ、戦後の多くの日本人がそうであったように、戦争への道の重要な
瞬間に立ち会った海軍将校たちも、重い口を開き始めました。年齢的な点からも、海軍において枢要な地位にあった人物が沈黙のままに次々と亡くなる中で、自分たちに残された
時間も僅かなものに過ぎないとの焦燥感から、いま、自身の体験や記憶を記録にしておかなければ、多くの事実が失われてしまう、とも考えていた(戸高一成氏)そうです。
きっかけは昭和52年、海軍士官の親睦団体であった「水交会」で元海軍中将の中澤佑氏から海軍時代の話を聞く会が持たれ、その中で中澤氏から「海軍は美点も多かったが、反
省すべきことも少なくない。反省会のようなものを作ってみては」という提案があったそうです。
第1回の反省会は昭和55年3月に水交会で開催され出席は9名であったそうです。この時、会の正式名称を「海軍反省会」とすること、反省すべきことを忌憚なく自由に発言す
るために、あるいは個人攻撃に類する発言があることも予想されるので、会の記録は将来の日本に伝えるものではあるが、当面は一切外秘として公表しない。会員が認めた海軍関
係者以外一切の部外者の出席を認めない、との方針を確認し、毎月1回のペースで平成3年4月の131回まで続き、テープに録音されました。出席者の希望は主な発言者が生存中
は絶対に公表しないことでしたが、」全く公表されなければ、自分たちの発言の意味もなくなるから、時機を見て、きちんとした形で発表してほしいというものでした。100回を超え
るころから、開会当初の古老というべき会員が次々と亡くなり、11年に及ぶ“生の声”の収録が終了したのでした。