過去の戦争を戦っている、というのはまさにその通りで、日露戦争のころの戦争は、手持ちの、始めたときの戦力で、終戦まで基本的に頑張るのです。それで何とかなるのですね。太平洋戦争では、平時定員のまま行ってしまって、これが消耗するうちに一定の結論が出るのではないかという、根拠のない願望のようなものがスタートのときにあったのではないですかね。結局、とてもそれではいかん、ということで途中から急に増員したりするんですけれど、もうぜんぜん間に合わなかった。だいたい日本海軍は、日本近海での艦隊決戦を見込んでいたから、広大な太平洋で作戦するなんて考えていなかったのですよ。(戸高一成氏)
持っている兵力だけで戦えるというのは、それは総力戦ではないんです。どんどん兵力を投入して飛行機をつくってと、そうやって拡大していくのが総力戦だという、その頭がなかったのです。(半藤一利氏)
出撃の直前に人事異動をやっているのですよ。戦争中だというのに、平時通りに、定時の人事異動をしているのです。(半藤一利氏)
艦長から何から、みんな新任だもの。それでシロウトなどと思うわけです。(澤地久枝氏)
海軍は超エリート集団だったとよく言われています。日本海軍も決して一枚岩ではなく、軍備作戦の面でもワシントン海軍軍縮条約により戦艦「加賀」を航空母艦に改造し、規制のなかった航空戦力を主力とする空母機動部隊を仕立て世界にいち早く登場させたのも日本海軍でした。装甲が厚く船体が重いために速力が出ない戦艦群に対して、無防備ですが中に空洞が多くしたがって軽いために時速30ノットを上回る高速の出る空母機動部隊はそれまでの海戦の常識を覆す存在でした。そして緒戦の真珠湾攻撃で世界にそれを実証したのも、また日本海軍でした。しかし、その作戦が終了すると、再びもとの路線に戻ります。
根拠のない願望、拡大していくのが総力戦だというその頭がなかった、出撃の直前に人事異動、大艦巨砲の艦隊決戦への執着、こんなバカなことが超エリート集団で起こりうるのだということを、日本人の遺伝子として今後に活かすために心に刻みたいと思います。
「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること (その8 長期展望の欠如)
日露戦争の勝敗を決定づけた日本海海戦で参謀長を務めた秋山真之はロシアのバルチック艦隊を日本海にて撃滅するため最大7派の迎撃を行い、ウラジオストックに入港する前に殲滅する漸減邀撃作戦を立て、実際に一昼夜の戦闘でそれを殲滅し大勝利をもたらしました。それ以来日本人の特性というのか、特に海軍においては大勝利の成功体験から離れられず、時代は変化しているのに、敵艦隊を潜水艦などで攻撃し、徐々に戦力を弱めつつ日本近海までおびき寄せ、そこで大艦隊が迎え撃って敵を殲滅するという艦隊決戦を作戦の軸としてきました。大艦隊同士の決戦を制するのは巨砲の存在が必要と戦艦はますます巨大化する大艦巨砲主義を貫いてまいりました。
日露戦争以後、日本陸軍はロシアを、日本海軍はアメリカを仮想敵国として軍備計画を立ててきました。対米作戦をするとき、どういう形でやるかという海戦要務令(1901年制。海軍の戦闘指揮にかかわる兵術の基準を示したもの)が必要だったのですが、なんと、それがなくて、昭和9年の海戦要務令(第4回改正)のまま戦うのですよ。明治以来それまでは何遍も改正していたのです。(中略)そのあとの昭和10年代には潜水艦と飛行機が登場します。(中略)それはまったく入っていないのですよ。入っていても補助程度です。(中略)昭和9年度版は当然直さないといけなかったのです。飛行機と潜水艦を主力に考えてつくり直すべきで、大艦巨砲の艦隊決戦なんてありえないと思ったほうがよかったのに残念ながら、思わない人が多かったのですね。(半藤一利氏、続く)