「ボックスカー」は島原半島を経て、長崎に向かっていました。その飛行は日本側にも確認されていました。当時長崎県大村市にあった紫電改を主力とする戦闘機部隊のパイロットであった本田稔さんは飛行場で待機していました。紫電改は上空10000メートルまで昇れる数少ない戦闘機だった。しかし、長崎に向かっているB-29が原爆機であるという危機的状況にあるのが分かっていながらなぜか部隊に出撃命令は出されませんでした。本田さんは言います。「確かにB-29は撃ち落すのが大変困難な爆撃機でした。しかし、自身撃ち落した経験もある。もし、出撃命令が出ていたら、そして原爆投下の恐れが強いのが分かっていたら、体当たりしてでも落とそうとしただろう」。後から客観視すれば、コールサインが捉えられ、原爆投下が危惧され、その行動が日本国内で随時追跡されていたわけですから、銃座をはずし、丸腰の状態で重い原爆を抱えている「ボックスカー」には作戦成功の可能性はスウィーニーの懸念通り極めて少なかったでしょう。
このころ軍の上層部は緊急の招集がかかっていました。皇居では最高戦争指導者会議開かれていました。戦況の悪化をもたらす事態が起こっていました。ソビエト参戦が伝えられていたのです。ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をするのか、決めかねていたその会議の席で、陸軍の梅津美治郎参謀総長ら陸軍の幹部は広島に原爆が落とされてもなお戦争の続行は可能であるとして次のように発言しています。「原子爆弾の惨禍が非常に大きいのは事実ではあるが、果たして米国が続いてどんどんこれを用いうるかどうか疑問である」。第2の原爆投下はないだろう、原爆機が長崎に向かっていたその時にも、根拠のない主張を繰り返していました。