昭和14年8月にこの戦いが終わって二年半がたたないうちに、日本は太平洋戦争に突入します。低水準の火力能力がわずか二年半で向上するはずはありません。ノモンハン事件の本当の教訓は全く顧みられなかったわけです。それどころか、この負け戦を直接指揮した作戦参謀の一人、服部卓四郎中佐は、後の昭和19年7月にサイパン島が陥落し、日本は見る影もなく撃ち破られたとき、参謀本部作戦課長であった同大佐は「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」といったそうです。ノモンハンの時にすでにわかっていたではないかと言いたくなるのですが、いずれにしても日本陸軍はこれだけ多くの犠牲を出しながら何も学びませんでした。口径が小さくて弾の飛ばない三八式歩兵銃は相手の自動小銃と比べて明らかに劣っているのに、ノモンハンの“反省”も活かされず、その後の太平洋戦争でも広く使われました。三発撃つと時間のかかる新しい弾込めをしなければならない、つくる能力がなかったわけではないのに、なぜ日本は新しい銃をつくらず最後まで三八式歩兵銃で戦ったのか、半藤氏は旧陸軍の人に理由を聞いたことがあるそうです。その答えは「実は三八式歩兵銃は四十年間に一千万挺も作った。三八式歩兵銃の弾丸も山ほどどころではなく、いくら使っても使いきれないほど作ってしまった。これがある間はとにかく使わなければならなかったんだ」と。そんなばかな考えで国家の運命を賭した戦争に突入したのですかと、半藤氏は思わず天を仰いだそうです。嗚呼、これも人災。