(あの戦争と日本人 半藤一利著、平凡社 2011年8月放送 NHKスペシャル 原爆投下-活かされなかった極秘情報-、ウィキペディアより)
大戦末期の昭和20年7月、米国はウラニウム235爆弾、プルトニウム爆弾の原子爆弾2個を実戦配備していました。その少し前の5月29日には占領したテニアン島にB-29爆撃機15機が飛来し、原爆を投下するための訓練を8月までにたっぷり積んでいました。「カボチャ」と当時暗号名で呼ばれていた4.5トンのすごくでかい爆弾をただ一個だけ積んで、銃座を外したり防備を外したりしてできるだけ軽くして、太平洋上を遠くまで飛んでいく訓練を積んでいました。原爆部隊は編隊を組まないで一機で飛びます。護衛の飛行機もつきません。
実は、日本陸軍はこのカボチャ搭載機について、かなり調べていたといいます。読売新聞が出した「昭和史の天皇」に詳細が書かれていますが、陸軍中央通信調査部というのが調布にあって、日本にやってくるB-29を丹念に観察しているのです。昭和20年7月の時点で、B-29はマリアナ諸島に600機いてサイパン島にいるのはみんな400番台の番号をつけている。415とか426とか。グアム島にいるのは500番台で、テニアン島は700番台の飛行機だと一覧表を作っていました。だから、B-29相互のコールサインを無線でキャッチして718なんていうと、ああ、これはテニアン島から来ている、と分かっていたのです。
天災それとも人災?その15
6.日本人の通弊(幕末史、半藤一利著、新潮社より)
太平洋戦争の時もそうでした。日本人は往々にして、確かな情報が入ってきていても、起きたら困ることは起きないことにしようじゃないか、いやこれは起きないに違いない。そうに決まっている、大丈夫、これは起きないとなってしまうのです。昭和二十年八月のソ連による満洲侵攻です。シベリア鉄道を通ってソ連の兵力が、どんどんソ連国境に集結していることが、その年の春位から分かっていました。日ソ中立条約の一年後の破棄は四月に既に言ってきていますから、攻撃の可能性はあるのではないかということは、軍の中枢部のたいていの人は予測できたでしょう。とりわけ参謀本部が分からないはずはないのですが、「今ソ連に攻めてこられたらお手上げだ。処置なし。」、だから起こっちゃ困るんだ、起こっちゃ困ることは起きないのではないか、いや起きないのだ、というわけでソ連は来ないことに決めたのですね。八月九日午前零時をもってソ連が一気に満洲の国境を越えて攻めてきた時、参謀次長・河辺虎四郎中将は「ああ、我が判断は誤てり。」と日記に書きました。判断の誤りではなく、そういう風に思いたかっただけなのです。
自分たち日本国民を守ってくれるはずの満洲軍が我先にと逃げ出し、ソ連軍に蹂躙された入植者たちの悲劇は、想像を絶するものです。嗚呼、これも人災。
天災それとも人災?その14
昭和14年8月にこの戦いが終わって二年半がたたないうちに、日本は太平洋戦争に突入します。低水準の火力能力がわずか二年半で向上するはずはありません。ノモンハン事件の本当の教訓は全く顧みられなかったわけです。それどころか、この負け戦を直接指揮した作戦参謀の一人、服部卓四郎中佐は、後の昭和19年7月にサイパン島が陥落し、日本は見る影もなく撃ち破られたとき、参謀本部作戦課長であった同大佐は「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」といったそうです。ノモンハンの時にすでにわかっていたではないかと言いたくなるのですが、いずれにしても日本陸軍はこれだけ多くの犠牲を出しながら何も学びませんでした。口径が小さくて弾の飛ばない三八式歩兵銃は相手の自動小銃と比べて明らかに劣っているのに、ノモンハンの“反省”も活かされず、その後の太平洋戦争でも広く使われました。三発撃つと時間のかかる新しい弾込めをしなければならない、つくる能力がなかったわけではないのに、なぜ日本は新しい銃をつくらず最後まで三八式歩兵銃で戦ったのか、半藤氏は旧陸軍の人に理由を聞いたことがあるそうです。その答えは「実は三八式歩兵銃は四十年間に一千万挺も作った。三八式歩兵銃の弾丸も山ほどどころではなく、いくら使っても使いきれないほど作ってしまった。これがある間はとにかく使わなければならなかったんだ」と。そんなばかな考えで国家の運命を賭した戦争に突入したのですかと、半藤氏は思わず天を仰いだそうです。嗚呼、これも人災。
天災それとも人災?その13
5.歴史に何も学ばなかった日本人(昭和史 1926-1945 半藤一利著、平凡社、及び あの戦争と日本人 半藤一利著、文芸春秋より)
昭和14年5月中旬から8月末、満州西北部のノモンハンを中心とする広大な草原で旧関東軍プラス旧満州国軍と、極東旧ソ連軍プラス蒙古(モンゴル)軍が大激戦を行いました。この戦いをノモンハン「戦争」といわず「事件」としているのは、互いに宣戦布告しているわけではなく、お互いの領土内侵略をめぐる単なる国境紛争でしたが、両軍とも大軍を出して戦うことになりました。戦闘は日増しに拡大し、日本側は58,925人が出動して戦死、戦傷、その他19,768人と1/3が死傷しました。普通、軍隊は30%がやられれば壊滅状態でそれほどの大損害を受けました。旧ソ連軍も大きな損害を受けるわけですが、旧ソ連軍が最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるいわゆる近代戦を仕掛けたのに対し、旧日本軍は銃剣と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺たる結果となりました。当時の日本兵の装備は、明治38年にできた三八式歩兵銃、当時ですら35年も前からある旧式の装備で、近代兵器で身を固めたソ連の兵隊と立ち合ったのです。
戦いが終わって、「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。教訓として、これからもますます精神力を鍛える必要がある、ついてはもうひとつ水準の低い火力戦の能力を向上させた方がいい。約2万人が死傷した負け戦の戦訓がこれだけで済ませられました。
天災それとも人災?その12
軍艦を別にすれば原子炉を動力源とする船を作った国は少なく、旧ソ連、アメリカ、西ドイツ(当時)に続く世界で4番目であったそうです。むつはあわれにも16年間にわたって日本の港をさまよいました。当時の社会党は原子力船から漏れる放射能が陸奥湾に溜まると原子爆弾なみの爆発が起こりうるなどというようなデマを流しましたし、マスコミも放射能漏れを不必要に騒ぎ立てました。むつに搭載された船舶用原子炉は諸外国のそれと比べて性能は良く、単に遮蔽に問題があっただけで、その改修後は不具合は指摘されていませんでした。しかし、これによって日本は原子力船の製造は不可能として、永久に開発を放棄しました。
しかし、みなさん。本当にこれでよかったのでしょうか。もともと調査研究用の実験船が少量の放射線漏れが出たためにその開発を永久に放置した結果、どんなことが起こっているでしょうか。
日本は資源に乏しく、四方を海で囲まれる海洋国家で、貿易・通商で生計を立てる国です。未来永劫これは変わりません。核燃料を一回搭載すれば何年も無補給で動ける船を開発改良すれば、今後の船舶輸送に大きな恩恵を与えたことでしょう。技術を転ずれば原子力潜水艦の開発にも応用できたでしょう。しかしこれを永久に放棄した結果、原子炉動力船は生まれなくなった。東日本大震災が起こり、中国やロシアは日本に対し医療救援隊の派遣を早速申し出てくれました(その規模は四川大地震時に日本が出した救援隊と比べるとはるかに小さいものではありましたが)。しかし、この両国は自衛隊24万人中10万人が東北に救援で出ているときの日本の国防がどうなっているのか、この大わらわの最中にテストを企てているのです。まさに、右手で握手、左手にハンマー。ロシアの軍用機が領空侵犯すれすれの空域に出現し、航空自衛隊は度々スクランブルをかけました。中国からは尖閣列島付近に例の「魚政」が出現、日本の海上保安庁の巡視艇では防げない領海侵犯、それは原子力潜水艦によるものです。日本の「どんガメ」(失礼)海上自衛隊のディーゼル艦ではとても追いつけない速度、そしてとても潜れない深度を、矢のような速度で疾走する侵犯艦、これに対し体を張って領海侵犯を防ごうとする自衛隊員の無念さを皆さん、理解できますか?本当に原子炉動力船を放棄してよかったのでしょうか。
そんなわけで今回の原子炉の事故を何とか日本の科学技術力で解決してほしい、安易に原発潰しに加担しないで長期的かつ冷静な視点でご判断いただきたいと切に願うところです。
天災それとも人災?その11
中曽根元首相が指摘しているように、科学技術立国の日本は大災害そして大津波による原発事故とどう戦い、どう克服していったかを見せられるか真価が問われていると思います。そしてこれは日本にしかできないこと、免震重要棟で不眠不休で頑張っている技術者たち、「福島フィフチィーズ」と欧米から注目・賞賛されている原発事故現場で体を張る作業にあたる人々、何とか日本の未来のために頑張ってほしいと思います。
「原発は要らない」と訴えるデモが散見されます。原子力に代わるエネルギーが安価で供給できるならともかく、太陽光や風力発電は現在のところ電力需要を補うにはあまりにも頼りなく、かといって二酸化炭素を大量に排出する火力発電の比率をさらに大きくすることは地球環境の面から許されることではないと思います。
放射能アレルギーである日本ですので、こういう大事故が起こってしまうとそういう心理状態になることは無理からぬことかもしれませんが、今後のエネルギー需要をどう賄うのかとい冷静な観点から判断していただきたいものです。
アレルギーといえば、返す返す残念であったのが原子力船むつの廃船でした。もともと調査研究用として1963年、なんと東京オリンピックの前年およそ半世紀前に建造計画が決まりました。1972年に核燃料が装荷され、日本初の原子動力船として1974年に出力上昇試験が太平洋上で開始されましたが、試験開始早々の同年9月1日放射線漏れが発生し帰港を余儀なくされますが、地元むつ市民は放射線漏れを起こしたむつの帰港を拒否したため、長い間漂泊しました。以後16年にわたり日本の港をさまよい改修を受け、4度の実験航海後1992年1月すべての航海を終了し、廃船が決定されました。これ以来、日本は原子力動力船の計画、建造や購入を放棄してしまいました。
天災それとも人災?その10
中曽根氏のコラムを続けます。
津波による原子力発電所の被災は世界で初めてのこと。大震災の発生当初、日本の科学技術力や災害対策への不信が世界に拡がった。実相が分かるにつれて不信は解消されつつあるが、日本の実力への過小評価を早急に改めさせなければならない。
文明に対する大自然の挑戦と日本人はいかに戦い、克服していったかを世界に見せる時だ。復興は政府主導で単に震災前に戻すのではなく、日本の新時代の先駆をなす「次の時代の新しい東北地方」を形成するという歴史的な意識を持って復興計画を作るべきだ。
国債も発行するだろうが、全国民が復興を手伝う意味から「復興特別税」を創設し、国民に広く薄く負担してもらうこともやむを得ない。
大震災で日本の原子力対策は一時的には停滞するだろうが、後退させてはならない。原子炉立地の際に津波など自然災害を十分に考慮するなど安全性の再検証・再評価を行うことは必要である。
与野党は事態が一段落するまで国家総力体制を維持し、内外の信頼を落とさぬことが肝要である、と述べています。全く共感するところです。
日本は科学技術ともの作りの国、中曽根氏も指摘しているように日本の技術がどのように対応したのか世界中の国々が注目しています。福島第一原発の復旧作業に現在も1400人もの人々が従事する免震重要棟、現場は狭く息苦しく、トイレも水洗が使えない劣悪な環境だそうですが、何とか暴れ馬のごときこの原発事故を優秀な頭脳を結集して抑え込んでほしいと願っています。
天災それとも人災?その9
日本が復興に向けて「一つになろうニッポン」と努力しているとき、最大の障害になるのが菅首相であると指摘せざるを得ないのは日本の不幸であります。最大の問題は、オールジャパンの態勢を組めないことです。官僚組織を束ね、その能力をフル活用せねばならない最高指揮官であるにもかかわらず、官僚機構への不信感が先立つためか使いこなせていないようです。首相の私的な勉強会といった政治主導組織が増殖し、肥大化していては先行きが危ぶまれます。まさに、人災と呼べるのではないでしょうか。国家は組織で成り立っています。管首相が震災後作ったのは図ばかり、知り合いの教授や友人に命令を下しても権限がない人に何も動かせません。対応は後手後手に回るばかりでした。国家という組織を持ちながら、官僚という素晴らしい頭脳集団を持ちながら使いこなすことができない、そんな首相を選んだのは残念ながらわれわれ国民なのです。大連立を提案する政府民主党に対し、中曽根康弘元首相は讀賣新聞に寄せた「新しい東北 世界へ示せ」というコラムの中で、大連立は政府・与党がどの程度真剣に心情を野党に吐露し、国家国民のために己をむなしくして協力を求めるかにかかっている。政権維持のためといった考えはかりそめにも持ってはならないと述べています。
天災それとも人災(その8)
4. 危機からの再出発(一部讀賣・日経5月上旬の紙面から)
自民党政権時の2009年6月経済産業省で開かれたある調査会で産業技術総合研究所の活断層・地震研究センター長は「869年の貞観地震で想定とは比べものにならない巨大な津波が来ている」と福島第一原子力発電所の危険性を繰り返し指摘していました。東電の担当者の答えは「研究的な課題としてとらえるべきだ」と素っ気ない返事だったそうです。それから2年足らず、福島第一原発事故の原因を東電は「想定外」としましたが、「想定」は間違いなくあったわけで、ただ直視してこなかっただけでした。
失敗学で有名な東大名誉教授の畑村洋太郎先生によると、「見たくないものは見ない。考えたくないことは考えない。米国は考えようと努力する国。日本は考えないままにしておく国」だそうです。最悪を考えない危機対策には限界があります。「福島原発が全電源を失ったらどうなるか」、昨年11月東電は福島県でそんな想定の避難訓練を実際にしているのですが、シナリオは数時間後には非常用電源が回復するというものでした。最悪のことはあえて考えない訓練は何の役にも立たなかったと住民から声が漏れたそうです。
米国は2001年9月11日の同時多発テロの経験を踏まえ、国内104基の原発に何重もの緊急時外部電源を配備する対策を進めてきたそうです。日本は最悪のことを考えず、ただ放置していた。その大きな差はなかなか埋まらないようです。
米国のオバマ大統領は4月末におきた竜巻の被害に対しアラバマ州など南部3州の知事の要請を受け、大規模災害宣言を出しました。宣言により医療費やがれきの片付けなどへの連邦予算の予備費の支出が自動的に認められるそうです。事態が悪化すれば知事は州軍による戒厳令を敷くことも可能になります。戒厳令下では私権は停止され、住民の強制排除、建物の事前許諾なしの取り壊しなどが出来るそうです。
戦争や内乱でなく、大規模な自然災害を「国家の非常事態」として、政府の強い権限行使を包括的に認めている国は少なくないそうです。しかし、わが国にはこういう想定がなく、結果的に福島第一原発の半径20km圏内の避難指示、20~30km圏内の屋内退避指示とその後の自主避難要請、20km圏外での計画的避難区域と緊急時避難準備区域の指定と理解するのも困難なあいまいな“お願い”を連発しました。そして警戒区域内への一時帰宅時の不満と混乱と不満ばかりが報道される結果となりました。有事に対する備えや決まり事を先送りにしてきた罰だと思われてなりません。
天災それとも人災?その7
2010年9月7日、尖閣諸島周辺で日本の海上保安庁の巡視船「みずき」が、中国籍の不審船を発見し日本領海からの退去を命じるも、それを無視して漁船は違法操業を続行、逃走時に巡視船「よなくに」と「みずき」に衝突し2隻を破損させました。海上保安庁は漁船の船長を公務執行妨害で逮捕しました。中国政府は「尖閣諸島は中国固有の領土」と主張し、船長・船員の即時釈放を要求しました。前原外相(当時)は「こちらにはビデオもある」、「尖閣諸島には領土問題は存在しない。国内法に基づいて粛々と進める」と中国に対しても臆さずという姿勢を示しました。しかし、中国国内では半日民間団体が早速日本批判や抗議活動を展開、中国政府も複数の極端な報復活動を繰り返しました。ついにはレアアースの対日輸出を禁止したばかりか、9月21日中国本土にいたフジタの社員4人を「許可なく軍事管理区域を撮影した」として身柄を拘束しました。これらの中国政府の措置を受けて、9月24日「国内法で粛々と判断する」と発言していた菅直人首相と前原誠司外相が国際連合総会出席で不在の中、那覇地方検察庁が拘留期限が5日残っている時点で、「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮して、船長を処分保留で釈放する」と発表、翌25日未明、中国のチャーター機で本国へ送還されました。中国帰国時、英雄扱いされた報道は記憶に新しいところです。
これに対して、与党からも「外交なんて全くの門外漢。恫喝され、慌てふためいて釈放しただけ」、「検察に政治的判断をさせるのはどうか」、「政治主導と言うなら政治家が責任を持って最後は判断しないと駄目だ」、「事実上の指揮権発動だ」という声が沸き起こりました。野党からは、「極めて愚かな判断だ。中国の圧力に政府が屈した」、「政府は弱腰外交との批判を恐れて、検察に責任を押し付けようとしている」、「明白な外交的敗北だ。菅内閣の弱腰外交を糾弾しなくければならない」などの批判の声が噴出しました。
しかし、ちょっと待ってください。一体全体尖閣諸島で何が起こったのか。肝心の国民は正確には知らされていませんでした。6分50秒に編集されたビデオは事件から2か月近い11月1日、衆議院予算委員会の理事ら30人のみに開示されました。世論でも映像を公開する声が高まっていたため、野党自民党は映像を国民へ全面公開することを求めましたが、政府と与党はこれを拒否しました。事件最初期の段階において、菅首相、仙石官房長官(当時)、前原外相の3閣僚はビデオを閲覧していたといいますが、一体全体この国はいったい誰が肝心な事柄を話し合い、誰が責任を持って決めるのか、全く理解できません。法務省が国益を考えて政治判断をするという、摩訶不思議な国は日本だけではないのでしょうか。