最近の日本、何かおかしくないですか?(その6、学校教育は今のままでよいのか?)

 私は福岡西ロータリークラブに11年前に入会し、ロータリーライフを楽しんでおります。日本のロータリアンは「ロータリーの友」という雑誌を読んでいるのですが、その一文を読んで強く共感を覚えたので紹介いたします。2004年12月号の「友」誌の「友情の広場」に載せてあったもので、岡山県倉敷市の松本勝治郎さんとおっしゃる眼科の先生からの「学校教育は今のままでよいのか?」という題名の投稿文でした。比較的短い文ですので、全文をご紹介します。
通学かばんの中から取り出した鏡の前で、他人の目を気にすることもなく厚化粧をし、駅の階段に座って股を開いてパンをほおばる高校生たちを見ていると、この国は今、滅びつつあるという気がしてなりません。「友」誌2004年3月号のガバナー座談会でも青少年問題を取り上げていますが、具体的な解決策となるとなかなか答えが見つからないといのが現状です。そういった中で、当クラブが9月に講演者としてお招きした、岡山学芸館高校校長・森靖喜氏の教育基本法を変えるという説に、私は賛成です。
戦後、米国は占領政策として日本に何を行ったのでしょうか?慶応大学の江藤淳著「閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」によれば、日本人に戦争の謝罪意識をもたせて、日本の伝統的文化、日本人精神をせん減させ、二度とアメリカという白人国家に歯向かうことのない日本人をつくる。そのように日本国憲法と教育基本法を作ったということです。戦後、日本の教育はこの教育基本法にのっとり、個人主義すなはち個人の価値を尊ぶ人権教育を行ってきました。
一見すると、この法律のどこが間違っているのか?いや、むしろ理想のものではないかとさえおもわれますが、これには大きな落とし穴があります。これはキリスト教文化圏で初めて成立するものだからです。キリスト教において、神と人間は契約で結ばれており、これに違反すれば人間失格、死後、地獄に落ちることになります。従って、一人で部屋にいるときでも、常に宗教という歯止めが掛かっています。
一方、日本のような無宗教といってもよい国では、すべて私の勝手、私の人権が一番ということになって、個人主義が利己主義に変わってしまいました。こういう教育を二~三世代、50~60年にわたって続けてきた結果、「他人のことは、どうでもよい、自分さえよければよい」という、今の日本の若い世代を作り出してしまいました。
「狂ったこの状態を元に戻すには、教育基本法を変えて、日本の伝統的文化、日本人精神を大切に、家族を大切に、日本という国を愛する心を養うような教育を取り戻すべきだ」と、森氏は語ります。私は、この説に全面的に賛成です。
では、ロータリーとして何ができるのか?国民の一人ひとりに戦後教育の実情を正しく知ってもらい、今後、どういう教育をすればよいのか考えていただくよう、積極的に啓もう活動を行って、世論を盛り上げることではないでしょうか。日本人が、日本の心を取り戻す日が来ることを願っています。

松本氏はこのように結んでおられます。私自身もこの説に大賛成です。

最近の日本、何かおかしくないですか?(その5、教育になっていないのでは?)

最近、新聞の社会面を見るのが辛くなってきました。悲惨なニュースが毎日報道されています。昭和の時代にはあまり目立たなかった特徴は子供に絡む犯罪の激増です。小学生同士が殺しあったり、親が育児を放棄・遺棄して死亡させたり、あるいは親を凶器で撲殺したり、「誰でもよかった」と行きずりの通行人を襲ったりと、1件、1件、背景は違っても、根源となっているのは、教育や躾の質の低下にあるのではないかと思います。
安倍晋三元首相のもとでようやく教育基本法の改正が行われましたが、「教」え、「育」くむという家庭としても、国としてもとても大切な行為にあまりにも間違いが多いのではないかと考えています。まずは私自身日頃思っていることから紹介しましょう。
子供は小学校に入ると、交通規則を習います。横断歩道では、右手を挙げて、右みて、左見て、も1度右を確認してわたりましょうと教わります。そして新学期には街の交叉点にはお父さん、お母さんが立って、黄色いランドセルカバーと付けた子供達の安全を守ります。ほほえましい風景です。しかし、よく見ると実際の横断歩道では、子供は、黄色い交通安全の旗を振りかざし、交通を遮断している大人達の顔をまっすぐに見つめて横断しています。手を挙げて、左右を確認している子供はほとんどいません。「子供を守ってやっている」という正義感からか、親はひっきりなしに交通を止め、子供は交叉点で待つことを教えられません。
本来は、子供が手を挙げ、左右を確認し、タイミングを計りながら安全に横断するのを教え、できていない子には厳しく躾ける役を大人は担っているはずです。こうして、子供達は交通ルールを学ぶ機会を奪われます。ご老人を自転車で撥ね、傲慢なふるまいをする若者の姿が報道され、大人達は「若者が交通ルールを守らない」と嘆きますが、その一因は親自身の勘違いにあるのかもしれません。子供が学び取る機会を大人が奪っていると思うのです。

最近の日本、何かおかしくないですか?(その4、やれるじゃないか日本)

 サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会と並んで、小惑星イトカワに着陸した探査機「はやぶさ」の快挙は梅雨空の日本にさわやかな感動を与えました。苦難に満ちた往復40億キロを乗り越え、動いているのが奇跡的なほどの満身創痍で、予定を3年も遅れて7年ぶりで地球に帰ってきた「はやぶさ」に航空ファンだけではなく多くの国民から賞賛の声が上がりました。オーストラリアの砂漠にわが身と引き換えにわずか数10センチの回収カプセルを落とすために、最期の力を振り絞って大気圏に突入し流れ星となって消えた「はやぶさ」。ネットには「よく頑張った」、「機械ながら健気な頑張りだ」「たとえ砂が入っていなくても金メダルだ」と共感の声が寄せられました。同時に、惑星探査に関して技術立国日本を証明して見せたのです。政権党のある国会議員が「事業仕わけ」で、日本の科学技術に対し「2位ではだめなのですか」と真顔で質した無知・無感覚な声が耳から離れません。こんな政治家がいるから、技術立国日本が王道を最近踏み外しているのではないかと心配になります。
 ともあれ「はやぶさ」の快挙に、回収カプセルを見ようと酷暑の夏休みに長蛇の列ができ、NHKでは特集番組が放映されました。「はやぶさ」の2号機も予算計上され、国民の期待も高まっています。やれるじゃないか日本の思いは私一人ではないと思います。

最近の日本、何かおかしくないですか?(その3、やれるじゃないか日本)

とはいえ、まずは最近嬉しかった話から。
平成22年6月30日未明、日本は感動の渦の中にありました。サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会で16強に勝ち進んだ日本はパラグアイとの120分の激闘の末に敗れはしましたが、仲間同士の強い絆とあきらめずに突き進む勇気を国民に熱く示してくれました。深夜にも関わらずテレビ視聴率は瞬間的に63%を超えました。同夜のNHKニュースウォッチ9で控えのゴールキーパー川口選手は「みんな試合に出たい。それを我慢してサブに徹する。犠牲心です。」と答えていました。PKを外してうなだれる駒野選手の手を取り仲間の列に加える「仲間を思いやる心」、体力的には敵わなくても身体を寄せて身を挺した守備、高まった一体感、田中マルクス闘莉王選手は「日本人になってよかった」と話していました。深夜、テレビに熱狂していた若者からは「愛国心を感じる」とありました。新聞によると、南アフリカの高地での試合に備え、高所トレーニング専門家の大学准教授が高地順化を進め、走れる体を作ったそうです。また、フィジカルトレーナーからの指導で、4試合の選手の走行距離は16強中2位、戦列離脱者はゼロと驚異の仕上がりだったそうです。サブの選手やスタッフ全員を加えて円陣を組む光景は、4年前のドイツ大会では1勝もできず、今回も前評判の低かったチームの進化を示していました。日本サッカー協会・川渕名誉会長が「(負けたのは)残念だが、だれも非難しないだろうというくらいの健闘ぶりだった」とコメントしていましたが、「一生懸命さ」、「がむしゃらさ」、「どろくささ」、「仲間を思う心」「肩を組んで君が代を斉唱する姿」に感動し勇気をもらった国民であることは紛れもない事実なのです。

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最近の日本、何かおかしくないですか?(その2、藤原先生登場)

 日本が、今、岐路に立たされています。何かがおかしい。ベストセラー「国家の品格」をお書きになった藤原正彦先生が、文芸春秋7月号に書いておられる「日本国民に告ぐ」から抜粋させていただきます。
・経済ではバブル崩壊後20年近くになるが、この間行われた様々な改革がどれもうまくいかない。デフレ不況を脱せず、財政赤字は世界一となり、なお増大している。失業率は増え続け、世界トップクラスの自殺大国となっている。
・政治を正すためには良い政治家が必要となるが、大量の小泉チルドレンに続いて、さらに大量の小沢チルドレンと選挙の半年前までは国政など考えたこともないような素人が登場し、質は低下するばかり、今後どんな政界再編があろうと、質の劣化した政治家たちの区分けが変わるだけのことであり、質の向上にはつながらない。濁った水はどう分けても濁ったままである。
・深刻なのはモラルの低下である。子殺し親殺し、「誰でもよかったが殺したかった」という無差別殺人など、かつてはありえなかった犯罪が頻りに報道されるようになった。子供たちのモラルも一斉に崩れ、学級崩壊、陰湿ないじめによる子供の自殺が普通になった。数世紀にわたって恐らく世界一だった子供たちの学力は、十年ほど前に首位を滑り落ち、その後も落ち続けている。不満が少しでもあれば大げさに騒ぎ立て訴訟にまで持ち込む人々が多くなった。人権をはじめとしてやたらと権利を振りかざす人間が多くなった。かつてこういう人間は「さもしい」と言われたものだが。
 まさにいいえて妙。何を間違えてこのような日本になってしまったのか。このブログで私は前々回まで医療の様々な側面について書いて参りました。医療・介護を含む社会保障費を確保するためには、その国の政治、経済は勿論のこと、国民の意識・判断に負うところが大きいと思います。医療に絡むことも、無関係なことも「何かおかしくない?」と思われることを思いつくままに挙げてみます。一緒に考えてみませんか。お付き合いください。

最近の日本、何かおかしくないですか?(その1、プロローグ)

「消費税を社会保障財源にすることについて議論を開始しよう」と選挙の争点のひとつに挙げた与党民主党が大敗しました。「10か月前まで消費税は上げないと言っておきながら何だ」「あまりにも唐突だ」という声に政権がぐらついています。振り返ってみると消費税率3%の導入時、そして5%への増税時、その度に内閣は崩壊して参りました。自民党のみならず民主党も与党政権党としてこの大型間接税率のアップには総選挙での大敗、衆参ねじれ現象を覚悟しなければならない状況です。
本当に消費税は一部の政党が声高に叫ぶほど低所得者の生活を破壊するものなのでしょうか?わが国の消費税は現行5%とヨーロッパの国々だけではなく諸外国と比べて低い税率です。高負担・高福祉の典型であるスウェーデンやデンマークのそれは25%と比較にならないほど高率ですが、そこでは所得の低い層の生活は本当に破壊されているのでしょうか?
日本は社会保障分野において低い社会保障給付が続いて参りました。税と社会保障負担が低ければ、それだけ給付も低く制限され、医療や介護を必要とするとき高い利用者負担を余儀なくされます。医療は今後とてつもない速さで進歩し、遺伝子治療、オーダーメイド医療の時代を迎えることでしょう。底抜け現象で格差が拡大した現在、支払い能力の差で選択に格差が出てきて良いのでしょうか。
北欧ではほとんどの国の大学の授業料は一部を除いて無料だと聞きました。消費税など皆で広く薄く負担するのか、授業料という形で利用する学生(を持つ親)が負担するのか、二つに一つです。「進学できないのは格差のせい」というのなら、食糧など生活必需品の税率を調整して中負担への議論に参加するべきではないでしょうか。
議会制民主主義が始まって百数十年、もういい加減に、無責任な政党の誘導に流されず、国民目線できちんとした議論が出来るような成熟社会にする国家年齢にさしかかっているのではないでしょうか。

在宅医養成の試み(終章)

 国(厚生労働省)も日本医師会も「在宅へ」という方向性を明示し、「総合医」や「かかりつけ医」、「訪問診療医」の意義を強調しているのに、肝心な患家の負担という意味ではまだまだ整備がされていません。国が在宅医療を本当に拡大したいのなら、家族に負担のない病院医療と比べて、家族に負担の生じる在宅医療は費用負担を軽減しないと在宅医療が拡がるはずはありません。サービス提供側も在宅であるが故に高額になる指導料や処置料を、献身的な家族から頂くのはつらいことです。せめて負担が病院医療の半額(この場合5%)にならなければ、「やっぱり家で看とろう」と思われる家族の絶対数は増えません。日本の超高齢化社会を乗り切るために、是非早期に負担軽減して頂きたい分野だと思います。
さて、このタイトルで長々と書いて参りました。在宅医養成を法人で取り組もうと心に決め、数々のトライアルを行って参りました。在宅医が育つのを待っているだけではいけないと考えたからです。もはや、訪問診療を抜きに開業は考えにくい状況になっているのに、開業を目指す勤務医は在宅のフィールドへは無関心です。福岡や東京で行った開業支援セミナーで持論をお話すると、理解はして頂けますが自分から飛び込もうという先生にはなかなか巡り合えません。
そこで、私が今までこのブログや講演の中で強調してきたポイントをわかりやすく見て頂くために動画「こんな方法があったんだ!! 必見!!開業する前に(白十字式)訪問診療医養成プログラム」http://www.tominaga-message.com/houmon/
を作成致しました。是非御覧下さい。
時代は在宅医療の充実を求めています。これからも今まで以上の情熱を持って在宅医を養成したいと思います。皆様、どうかよろしくお願い致します。

在宅医養成の試み(その14)

もうひとつ、体験者の声を紹介させて頂きます。
        「母と一緒に“大切な父”を自宅で看とれたこと」
 肺がんで入退院を繰り返していた父。「手術もできないし、これ以上治療できない」と病院の主治医に言われ、自宅で母と一緒に、父の介護がはじまりました。近所のクリニックの先生や看護師さんが、毎日、点滴したり、痰をとりに来てくださったので安心しました。
 そんなある日、私は婦人科の病気で入院してしまいました。手術が終わり退院して5日目、父は亡くなりましたが、それまでの毎日、父は酸素吸入をつけていて息苦しいのに、私のことばかり心配してくれました。弱音を吐かない強い人でした。
 亡くなるときは一瞬でした。私は、もう意識のない父の姿を見守りながら、「家にいたからこそ、母に看とられて父は亡くなることができた」と思いました。病院だったら亡くなる瞬間は、そばにいられなかったかもしれません。
 何年も介護している方は、看病疲れでノイローゼになったり、倒れたりすることもあると聞きます。たしかに介護は大変なことだと思います。でも、家族や周囲の人たちみんなで協力できれば最高だと思います。
 

 このように在宅医療は病院の看とりと比べ家族の満足度が全く違います。病院では医療(延命)を優先するが故にまともな看とりができないことがあります。反面、在宅では家族の身体的・精神的負担も重いものです。病院に任せきりで、極端にいえば海外旅行をして遊んでいるのに、費用は1割負担(高齢者の場合)、一方、家族が一生懸命に家庭で支え、時には医師や訪問看護師に代わって命をつないでいるのに費用はやはり同額の1割負担、これはおかしな話ではありませんか。

在宅医養成の試み(その13)

 続いて体験者の声の一部を紹介させて頂きます。
     「自宅は世界一の特別室」
 病院を退院して「在宅医療」を選んだ主人が亡くなるまでの6ヵ月間は、お互いに好きなことを言って、かばいあう楽しい日々でした。亡くなる2週間前、親戚が10人ほど見舞いに来てくれたとき、主人はコーヒーを自分でたててふるまい、「病人だってことを忘れていたよ」とニッコリ笑いました。私にはその笑顔がなによりの贈り物。一生忘れることができません。
 「在宅医療」を選んでよかったことは、病室の人に気を使わなくてすむこと、好きな時間にお風呂に入れたこと、気がねなくトイレに行けたこと、娘や孫と一緒に賑やかに食事ができたこと、急用のときは24時間、医師に連絡がとれたこと。
 自宅は世界一の特別室でした。
と、ありました。
 人生の最期の大切な日々を同室の人に気がねしたり、お風呂やトイレまで思うままにならない毎日にすることが、ご本人にとって幸せなことでしょうか。