「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その1 はじめに)

澤地久枝、半藤一利、戸高一成著、「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」(岩波書店)を読みました。計400時間にも及ぶ反省会のテープの存在が偶然にも明らかになり、NHKのスタッフが3年の取材を経て全3回のNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」(第1回「開戦 海軍あって国家なし」、第2回「特攻 やましき沈黙」、第3回「戦犯裁判 第二の戦争」)と特集番組「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか」が放送されました。NHKによる戦争関連の8月の番組はいつも視聴者層が60~80歳くらいですが、この反省会の番組では30~40歳代の年齢層の人に多く見られたそうです。特集番組「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか」は高い視聴率を獲得し、この本が出版されることになったのであろうと思われます。戦争中の軍の記録は終戦直後、連合軍が日本を占拠する前に、軍部が重要資料のほとんどを焼却処分としておりましたし、学校ではGHQからの指令で、昭和20年12月31日に歴史と地理と修身の授業を廃止しろということになりました。日本の近代史をきちんと教えてもらえなかった若い世代が、足かけ5年の長い戦争において300万人以上の犠牲者を出し、国家滅亡の危機に陥らせた戦争突入への経緯はいかなるものであったのか、なぜ勝算もないまま、戦争への道を突き進んでいったのか、昭和が遠くなってきたこの平成20年代に「きちんと歴史を学び理解しておきたい」という欲求がこの高視聴率をもたらしたものと思います。
 このブログでは我々日本人は極めて勤勉で真面目な愛すべき人種であるのに、残念ながらいつの時代もリーダーに恵まれたとは言い難いことを書いてきました。歴史書にも学校教育の場でも明らかにされてこなかった昭和の一時代の真実を知ることは我々日本人の一人でもある指導者がいかに判断を誤っていくのか、その人種的遺伝子を知ることによって、我々は明日の行動をより間違いないものに変えていくことができるのかもしれない。そんな想いでこのシリーズをスタートします。
 この本は対談形式をとっていますが、文意が変わることは本意ではないので、テーマに対するコメントはほぼ原文(強調文字の部分、一部要約)のままで発言者名をその末尾につけることにします。ご了承ください。

ちょっと気分を変えて その2

管轄の文部科学省からは「もうあきらめろ」、「宇宙の迷子が発見された例はない」の声。
しかし、スタッフはあきらめませんでした。2006年1月23日パルスが届き、以後1ビット通信により送受信機能は徐々に回復し、3年遅れで地球へ帰還の途につきました。
 ところが、地球帰還間近の2009年11月4日イオンエンジン4基目の故障が発生、絶望の記者会見を開きました。記者からは「よく幾多の危機を乗り越えた」、「合格点だ」と慰められました。しかし、スタッフはまだ諦めない。実は「はやぶさ」は130億円の実験機、打ち上げ前からそのコンピューターにこうなったらこうすると想定外のこともインプットしておりましたが、4つのエンジンを裏側でダイオードにて繋ぐという“コンプライアンス違反”の作り込みをしていました。許されるわけではないけれど、この“ルール違反”により推力が回復します。2010年6月、7年もの苦難の旅を共感と感動の輪の中に終わらせます。
 講演後の質問の時間に私は手を挙げました。「このプロジェクトは多くのチームによって成り立っています。とかく日本では失敗の原因となったチームは他のチームから批判され責任論を問う声が大きくなるものですが、たび重なる危機を協調して乗り切れた要因は何でしょうか」と質問しました。的川先生は少し考えて、「我々のチームの中にはノーベル賞の候補にもなるようなベテランの科学者もちょっと前に大学院を出たような若い人も混在しています。しかし、誰でもものが言える。若い人もみな平等、ミッションを共有している。みんな大好きなことをやっているので諦めない。逆境が人と人をつなぐ」とおっしゃいました。この答えに私は講演以上に感動して涙が出そうでした。
 誰でもものが言える。ミッションを共有する。「天災それとも人災?」で話題にした各々の節目でそれが出来ていたら—。東日本大震災の議事録未作成にも「義務はない」とする、失敗の反省を怠っても恥じないリーダー達と同様、いやそれ以上に繰り返してはならない大失敗である先の大戦での海軍を例にして、組織の在り方、リーダーの在り方をまた語ってみたいと存じます。戦争の話ばかりで恐縮ですが、お付き合いください。

ちょっと気分を変えて その1

小惑星探査機「はやぶさ」の設計、打ち上げに当初からかかわり、すべての行程を見守ってこられた宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授・技術参与の的川泰宣(まとがわやすのり)先生の講演を聴く機会に恵まれました。『この国とこの星と私たち-「はやぶさ」と日本人の心-』と題した講演会でした。「はやぶさ」をテーマに3本の映画が上映されましたが、的川先生は私が見たその2本目の映画の中でチームリーダー川口淳一郎JAXA教授を補佐する藤原竜也さんが演じていた人物です。「はやぶさ」は1~2メートル四方の小さな体で、7年間2592日、60億キロもの想像を絶する任務を全うし、46億年前の太陽系誕生の様子がそのまま残る直径500メートルの小惑星イトカワの地表の塵を回収し、わずか40cmの回収カプセルを身代わりに大気圏で散っていった惑星探査機でした。イトカワは的川先生の東京大学の師匠であった糸川英雄博士の名前を「はやぶさ」の打ち上げ(2003年5月9日)後、3ヵ月たった時点で命名されたと伺いました。イトカワは3億キロと地球から太陽までの2倍の距離にあり、電波が届くのに約17分を要するはるかかなたの宇宙の極めて小さな惑星です。その遠方まで「はやぶさ」を運んだイオンエンジンの推力であるキセノンガスはわずかに2グラムの推力だそうです。2グラムと言えば鼻息程度の微小推力でしかありませんが、宇宙では非常に効率が良く、塵も積もれば加速も大きく、そのエンジンが何千時間も持つのかという実験機でした。行きは順調に自立航行できました。いよいよイトカワに向かって降下し、計2回のタッチダウンを行った頃から故障が続出しました。2005年10月2日には姿勢制御のためのホイール2基目の故障、同11月26日には燃料が漏れ、シャットダウン。姿勢制御ができないばかりか、同12月8日には通信も途絶え、宇宙の孤児になりました。

天災それとも人災?(その23)読売新聞2011.12/27、2012.3/1の記事より

大村の戦闘機部隊のパイロット本田稔さんが、「こんなことを許していたらまたこのようなことが起こるのではないですかね」と嘆かれた通りのことが、昨年3月に起こってしまいました。2011.12月27日の読売新聞はトップニュースとして、東京電力福島第一原子力発電所事故に関する政府の事故調査・検証委員会の中間報告を発表したと載せています。それによりますと、中間報告は東京電力や政府の事故対応の不手際を明確に指摘し、原発事故の「人災」としての側面を浮かび上がらせています。政府の危機管理全般の問題点には踏み込み不足で、今年夏の最終報告に向け、当時の管首相らの聴取による検証が課題となるとしています。政治家のヒアリングについては、時間の経過とともに記憶が薄らぐことは避けられないし、政治家1人当たりのヒアリング回数は最小限に止める予定とすれば、またまたあの方のイラついた顔が画像に出てくるだけで、何の本質的な解決にもならないと考えるのは私だけでしょうか。
2012.3月1日の新聞には内閣府公文書管理委員会が東日本大震災に関する10組織の会議で議事録が未作成だった問題について、「震災で多忙だった」、「作成義務は課せられていない」という理由を挙げ、記録作成への意識の低さが改めて浮き彫りになったと伝えています。
半藤一利先生が指摘する歴史に何も学ばなかった日本人、失敗学で有名な東大名誉教授の畑村洋太郎先生が指摘する見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない日本人、記録が詳細な近代だけを見ても、我々日本人の大きな失敗をするパターンはおおよそ似ています。日本人の遺伝子が大きくは変化しないのであるならば、歴史に学び、数々の失敗に学ぶ、これこそがこれからのリーダーに欠かせない資質であると思います。私も職員約2800名のトップとして常に心がけて参りたいと考えます。 (天災それとも人災?完)

天災それとも人災?(その22)

会議が続いていた11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。またしても空襲警報すら出されませんでした。原爆投下の5時間も前に軍の上層部がつかんでいた情報が、なぜ活かされなかったのか。陸軍参謀本部上層部に情報を伝えていた堀栄三少佐は長崎の原爆に関してはほとんど語っていません。ただ一つ、短いメモの中で「8月9日もコールサインを傍受したが、処置なし。後の祭りとなる」と書き残しています。
原爆が落とされた後、大村の戦闘機部隊のパイロット本田稔さんは次々と運び出される人々を病院に運ぶ仕事を命じられていました。「こんなひどいことが世の中に許されるのか、私は軍人として情けない。申し訳ない」。せめて空襲警報さえ出ていたら、またも無防備な人々の上に投下された原子爆弾。5時間も前に軍の中枢がつかんでいたことを初めて聞かされた本田稔さんは「なんで出撃命令を出さなかったのか。5時間もあれば十分対応が出来ていた。これが日本の姿ですかね、こんなことを許していたらまたこのようなことが起こるのではないですかね」。
ソビエト参戦、苦悩と混乱を差し引いても活かされなかった極秘情報、二度にわたって悲劇を繰り返した国を導く者の責任の重さを今の時代に問いかけています。

天災それとも人災?(その21)

「ボックスカー」は島原半島を経て、長崎に向かっていました。その飛行は日本側にも確認されていました。当時長崎県大村市にあった紫電改を主力とする戦闘機部隊のパイロットであった本田稔さんは飛行場で待機していました。紫電改は上空10000メートルまで昇れる数少ない戦闘機だった。しかし、長崎に向かっているB-29が原爆機であるという危機的状況にあるのが分かっていながらなぜか部隊に出撃命令は出されませんでした。本田さんは言います。「確かにB-29は撃ち落すのが大変困難な爆撃機でした。しかし、自身撃ち落した経験もある。もし、出撃命令が出ていたら、そして原爆投下の恐れが強いのが分かっていたら、体当たりしてでも落とそうとしただろう」。後から客観視すれば、コールサインが捉えられ、原爆投下が危惧され、その行動が日本国内で随時追跡されていたわけですから、銃座をはずし、丸腰の状態で重い原爆を抱えている「ボックスカー」には作戦成功の可能性はスウィーニーの懸念通り極めて少なかったでしょう。
このころ軍の上層部は緊急の招集がかかっていました。皇居では最高戦争指導者会議開かれていました。戦況の悪化をもたらす事態が起こっていました。ソビエト参戦が伝えられていたのです。ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をするのか、決めかねていたその会議の席で、陸軍の梅津美治郎参謀総長ら陸軍の幹部は広島に原爆が落とされてもなお戦争の続行は可能であるとして次のように発言しています。「原子爆弾の惨禍が非常に大きいのは事実ではあるが、果たして米国が続いてどんどんこれを用いうるかどうか疑問である」。第2の原爆投下はないだろう、原爆機が長崎に向かっていたその時にも、根拠のない主張を繰り返していました。

天災それとも人災?(その20)

8月9日未明、再び広島のときとまったく同じあのコールサインV675で呼ばれるB-29がテニアン島から発進したことがキャッチされました。どこだかわからないけれど数時間後には日本国内のどこかに落とされる危険が大きいと判断されました。この重大情報は陸軍参謀本部梅津美治郎参謀総長にも報告されました。長崎への原爆投下の5時間も前に、原爆搭載機が日本に向かっていることが参謀本部中枢まで報告されていたのです。緊張は高まっていました。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機とは会合できましたが、写真撮影機とは合流できず、40分が経過したため、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにしました。午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし、計3回の投下目標確認に失敗し、この間約45分間の時間と燃料を使ってしまいました。残燃料に余裕がなくなったばかりか、「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えました。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱しました。

天災それとも人災?その19

8月6日の広島原爆投下作戦において観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島に帰還した夜、第二の原子爆弾投下作戦の指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられていました。その時に指示されていた戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機なしで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものでした。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いていました。
徹底抗戦を主張し、広島市壊滅の影響をできるだけ小さくするため、表向きは原子爆弾と認めようとしなかった陸軍参謀本部も、その内部ではそれを認めていました。それどころか、広島への原爆投下の2日後の8月8日、特殊情報部の中庭で参謀本部による表彰式が執り行われました。原爆搭載機のコールサインを突き止めた功績が評価されたのです。「V600番台のB-29が最も恐ろしい原子爆弾を積んでいることが判明した。同じようなコールサインの飛行機が今度飛べば、全部追跡して撃滅するから」とねぎらいの言葉をもらいました。

天災それとも人災?その18

その直後の昭和20年7月16日、米国は人類初の原爆実験に成功します。米国ニュ―メキシコ洲で爆発力の強大な新兵器の開発に成功したとのニュースは、断片的ながら情報は参謀本部にも伝わりました。日本の多くの研究者がこれは原子爆弾の製造に米国が先に成功したと判断したのに、陸軍上層部は一人もそれを認めようとはしませんでした。そして、通常100機、200機と大編隊で飛んでくるB-29と違い、単機もしくは数機という奇妙な行動をとる新顔600番台の “特殊任務機”の目的も不明とされたままでした。
8月6日午前3時、陸軍特殊情報部はV600番台のコールサインの特殊任務機が日本に向かっているとの情報に緊張感が高まっていました。これが、「エノラ・ゲイ号」でした。豊後水道から広島上空へ深く侵入しつつあるという、参謀本部には伝わっているはずの情報はなぜか広島の司令部には伝わらず、空襲警報すら出されませんでした。
 8月6日午前8時15分、広島市上空570メートルで原子爆弾が炸裂しました。無防備の多くの市民が犠牲になりました。「あのとき、空襲警報さえ出ていたら」、地下壕の中で運よく生存し、地獄のような地上の光景におののきながらも、懸命に負傷者の救護に当たる人々はそう思っていました。どうして空襲警報は出されなかったのか、今も理由はわかりません。
 8月7日になっても陸軍はそれを原子爆弾と認めようとはしませんでした。「米国は原子爆弾とか言っているようだけれども、非常に力の強い普通の爆弾とも思われる」とのコメントを出しています。陸軍が、有本精三中将を長とする調査団をつくり、DC3型輸送機に乗せて広島に向かわせたのは8月8日午後でした。その調査の大任をまかされた一行のなかに、日本の原爆製造に関わった仁科博士の姿もありました。
 輸送機は夕暮れの広島上空に達し、何度も何度も旋回しました。博士は窓にぴったり顔をくっつけて、食い入るように地上を見つめていた。そしてしばらくして、「これは、原子爆弾です」と口の中でそう低くつぶやいたといいます。しかし、悲劇はこれだけでは終わりませんでした。

天災それとも人災?その17

ところが、7月の20日から、400番台でも、500番台でも、700番台でもない、600番台の新しい航空隊がちょくちょく日本に来ると。「おや、おかしいな?」と思った人がいて、これを丁寧に追っかけていったのだそうです。そしたら、その飛行機の番号がほかの飛行機とは違う。ほかのB29は25V、425Vとか二桁三桁なのに、この新顔は一ケタの2V625とか、5V655、8V632というようなコールサインで飛んでくる。しかも、一機で飛んでくる—–何か新しい部隊が出てきたのだろうか、と思っていたようです。陸軍参謀本部情報部第二部の堀栄三少佐は600番台の正体不明機を特殊任務機と呼び、その情報は参謀本部の上層部まで伝えられていました。
陸軍参謀本部は米国が原爆開発を推し進めていることを早くから知っていました。そして、昭和18年春、東条英機陸軍大臣は米国の原爆開発は相当進んでいると判断し、日本も後れを取らないようにと理化学研究所の仁科芳雄博士らの研究陣に開発を急がせています。しかし、昭和20年6月末には空襲で原爆の開発を続行する環境ではなくなったため、陸軍上層部は、その開発を断念しました。そして、原子爆弾開発に関し「米国も為し得ざるものと判明せり」と全く根拠もなく決めつけていました。大きなプロジェクトを止めるに当たり、そしてそれが日本にとって危機的な状態をもたらせることが明白なため、止める理由付けが必要になっただけのことでした。起こっては困ることが起こると、決まって日本の指導者は起こらないものと決め付ける習性があるのはこの一件でも明らかです。

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