「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その10 それで勝てると思っていた)

海軍大学校に図上演習規則というのがありました。実際に図上でサイコロを振ってやるシミュレーションですが、(中略)本当のミッドウェー海戦では、索敵を一回しか出していないが、われわれは3派出した。索敵を出すと攻撃用の飛行機の数が減るから出したくないんだけど出した。それでそのときわかったのですよ。ああ、この大作戦をやったとき、機動部隊の参謀の数が足りなかったな、と。あっちも目配り、こっちも目配りしなくてはならない。一段索敵、二段索敵と丁寧にやっても、私と戸高参謀長の二人して、他が忙しくて索敵機を忘れてしまうのです。(半藤一利氏)
実際の現場では、これは大変だったと思う。飛行機は出したら出しっぱなしではなく、きちんとフォローしなければならない。飛行機からの通信も全部フォローして、どこを飛んでいるかを把握していなくてはならない。でも、他の仕事が忙しくてやっていると、知らぬ間に撃墜されている飛行機があったりするのです。つまり、そこには必ず敵がいるわけです。それがわからないといけないのに、そういうフォローができていない。ドタバタやっているうちに頭の上に敵機が来ている、そういう状態になってしまうんですね。私は参謀が本当に足りないと思いました。(戸高一成氏)
参謀が本当に足りないことがわかります。太平洋戦争を始めた連合艦隊司令部は参謀の人数が、日本海海戦のときの東郷平八郎さんの連合艦隊とほぼ、どころじゃない、まったく変わらないのです。それは、新しい兵器ができていますから、航空参謀とか若干は増えています。足し算はいくらかされていますけど、戦場は広大になっているし、出動している艦艇の数は10倍以上です。なのに、基本的には東郷さんたちと同じなのですよ。(半藤一利氏)

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その9 続・長期展望の欠如)

過去の戦争を戦っている、というのはまさにその通りで、日露戦争のころの戦争は、手持ちの、始めたときの戦力で、終戦まで基本的に頑張るのです。それで何とかなるのですね。太平洋戦争では、平時定員のまま行ってしまって、これが消耗するうちに一定の結論が出るのではないかという、根拠のない願望のようなものがスタートのときにあったのではないですかね。結局、とてもそれではいかん、ということで途中から急に増員したりするんですけれど、もうぜんぜん間に合わなかった。だいたい日本海軍は、日本近海での艦隊決戦を見込んでいたから、広大な太平洋で作戦するなんて考えていなかったのですよ。(戸高一成氏)
 持っている兵力だけで戦えるというのは、それは総力戦ではないんです。どんどん兵力を投入して飛行機をつくってと、そうやって拡大していくのが総力戦だという、その頭がなかったのです。(半藤一利氏)
 出撃の直前に人事異動をやっているのですよ。戦争中だというのに、平時通りに、定時の人事異動をしているのです。(半藤一利氏)
 艦長から何から、みんな新任だもの。それでシロウトなどと思うわけです。(澤地久枝氏)

 海軍は超エリート集団だったとよく言われています。日本海軍も決して一枚岩ではなく、軍備作戦の面でもワシントン海軍軍縮条約により戦艦「加賀」を航空母艦に改造し、規制のなかった航空戦力を主力とする空母機動部隊を仕立て世界にいち早く登場させたのも日本海軍でした。装甲が厚く船体が重いために速力が出ない戦艦群に対して、無防備ですが中に空洞が多くしたがって軽いために時速30ノットを上回る高速の出る空母機動部隊はそれまでの海戦の常識を覆す存在でした。そして緒戦の真珠湾攻撃で世界にそれを実証したのも、また日本海軍でした。しかし、その作戦が終了すると、再びもとの路線に戻ります。
根拠のない願望、拡大していくのが総力戦だというその頭がなかった、出撃の直前に人事異動、大艦巨砲の艦隊決戦への執着、こんなバカなことが超エリート集団で起こりうるのだということを、日本人の遺伝子として今後に活かすために心に刻みたいと思います。 

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること (その8 長期展望の欠如)

日露戦争の勝敗を決定づけた日本海海戦で参謀長を務めた秋山真之はロシアのバルチック艦隊を日本海にて撃滅するため最大7派の迎撃を行い、ウラジオストックに入港する前に殲滅する漸減邀撃作戦を立て、実際に一昼夜の戦闘でそれを殲滅し大勝利をもたらしました。それ以来日本人の特性というのか、特に海軍においては大勝利の成功体験から離れられず、時代は変化しているのに、敵艦隊を潜水艦などで攻撃し、徐々に戦力を弱めつつ日本近海までおびき寄せ、そこで大艦隊が迎え撃って敵を殲滅するという艦隊決戦を作戦の軸としてきました。大艦隊同士の決戦を制するのは巨砲の存在が必要と戦艦はますます巨大化する大艦巨砲主義を貫いてまいりました。
 日露戦争以後、日本陸軍はロシアを、日本海軍はアメリカを仮想敵国として軍備計画を立ててきました。対米作戦をするとき、どういう形でやるかという海戦要務令(1901年制。海軍の戦闘指揮にかかわる兵術の基準を示したもの)が必要だったのですが、なんと、それがなくて、昭和9年の海戦要務令(第4回改正)のまま戦うのですよ。明治以来それまでは何遍も改正していたのです。(中略)そのあとの昭和10年代には潜水艦と飛行機が登場します。(中略)それはまったく入っていないのですよ。入っていても補助程度です。(中略)昭和9年度版は当然直さないといけなかったのです。飛行機と潜水艦を主力に考えてつくり直すべきで、大艦巨砲の艦隊決戦なんてありえないと思ったほうがよかったのに残念ながら、思わない人が多かったのですね。(半藤一利氏、続く)

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その7 ミッドウェー海戦「運命の5分」は本当か)

太平洋戦争初期の昭和17年6月、中部太平洋ハワイ諸島北西に位置する米領ミッドウェー諸島周辺海域で行われた日米の機動部隊の激突であるミッドウェー海戦で、日本は主力空母4隻と多くの熟練パイロットを失う大敗を喫し、この海戦を境に以後戦局は米軍優位となったターニングポイントの作戦として有名です。著者の一人で、作家の澤地久枝さんがミッドウェー作戦を題材とした作品「滄海よ眠れ」の取材を昭和54年から始めたそうですが、旧海軍軍人からまるで国賊のようにひどく叩かれたそうです。
 ミッドウェー海戦について、アメリカの有名な戦史家ウォルター・ロードの本でベストセラーになった「逆転」がある。ここにも「運命の5分 fatal 5 minutes」という、あと5分あったら日本海軍は勝っていた、という記述があります。日本側でも(中略)この話がずーっと生きているのです。私も疑わずに調査を始めたのですが、戦闘詳報をいくら調べてみてもそうはならない。5分にはならないのです。例えば雷撃機の爆装を海・陸・海と取り替えるために何分間かかるか。そんな短い時間にはできないのです。それでもこの説はずっと残ってきていて、私はまったく孤立しました。(澤地久枝氏)(中略)
 海軍は必ずしも一枚岩ではなかったのですね。そうなんですけど、海軍の悪口に対しては一枚岩になる。澤地さんが、「運命の5分間」はなかった、つまり、自分たちの作戦失敗を糊塗するための作文であることを発表されたときには、奇怪なほどものすごく反発するのですね。(半藤一利氏)(中略)
 でもやはり、事実というのは一つなんですね。解釈というのはいろいろあると思うのですが、事実は一つなので、それをきっちり詰めていくとやはり、見えてくるものは通説とは違うのではないか、ということがたくさんあるのです。(中略)そういうふうに、海軍の人たちには、海軍を守りたいという気持ちと、やはり事実を残したいという気持ちの中で一つの葛藤があったのですね。それで、晩年になってやはりどこかで残しておきたいという気持ちが、反省会という形でまとまったのだと思っています。(戸高一成氏)

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること (その6 海軍反省会の生い立ち)

戦争は悲惨なものであり、家族を失ったり人に話せないような悲しみのどん底に追いやられた敗戦国民の多くは、その話題には沈黙を保ち、記憶から遠避けたいとするのでしょ
う。しかし、長い長い時間が経過し、人生が終盤を迎えるころ、自分たちに残された時間に限界を感じるにつれ、戦後の多くの日本人がそうであったように、戦争への道の重要な
瞬間に立ち会った海軍将校たちも、重い口を開き始めました。年齢的な点からも、海軍において枢要な地位にあった人物が沈黙のままに次々と亡くなる中で、自分たちに残された
時間も僅かなものに過ぎないとの焦燥感から、いま、自身の体験や記憶を記録にしておかなければ、多くの事実が失われてしまう、とも考えていた(戸高一成氏)
そうです。
 きっかけは昭和52年、海軍士官の親睦団体であった「水交会」で元海軍中将の中澤佑氏から海軍時代の話を聞く会が持たれ、その中で中澤氏から「海軍は美点も多かったが、反
省すべきことも少なくない。反省会のようなものを作ってみては」という提案があったそうです。
 第1回の反省会は昭和55年3月に水交会で開催され出席は9名であったそうです。この時、会の正式名称を「海軍反省会」とすること、反省すべきことを忌憚なく自由に発言す
るために、あるいは個人攻撃に類する発言があることも予想されるので、会の記録は将来の日本に伝えるものではあるが、当面は一切外秘として公表しない。会員が認めた海軍関
係者以外一切の部外者の出席を認めない、との方針を確認し、毎月1回のペースで平成3年4月の131回まで続き、テープに録音されました。出席者の希望は主な発言者が生存中
は絶対に公表しないことでしたが、」全く公表されなければ、自分たちの発言の意味もなくなるから、時機を見て、きちんとした形で発表してほしいというものでした。100回を超え
るころから、開会当初の古老というべき会員が次々と亡くなり、11年に及ぶ“生の声”の収録が終了したのでした。

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること   (その5 現代への教訓)

このシリーズは二度と手に入らない教科書である太平洋戦争の主役の一人を演じ、極めて優秀な頭脳集団とされた日本海軍がその戦力の中核である艦艇のほぼすべてを失って、事実上全滅した数々の要因をその時の指揮官らの行動から日本人がもっている思考遺伝子を明らかにしたいと思って始めました。その1~その4では、なぜ昭和史を学ばなければならないか、そして歴史が何を伝えてくれるのか、いわばシリーズの結論からスタートしました。
 海軍反省会の400時間のテープをひたすら聞き続け、この本の編集・出版にあたった方々が会得したものは、現代への教訓でした。
 私たちが注目したのは、当時の海軍士官の多くは「実は戦争には反対であり」「戦えば必ず負ける」と考えていたにもかかわらず、」組織の中に入るとそれが大きな声にならずに戦争がはじまり、間違っていると分かっている作戦も、誰も反対せずに終戦まで続けられていった、という実態である。そこには日本海軍という組織が持っていた体質、「縦割りのセクショナリズム」「問題を隠ぺいする体質」「ムードに流され意見を言えない空気」「責任の曖昧さ」があった。それは現在危機が進行中の、東京電力福島第一原子力発電所事故への関係機関の対応に見られるように、そのまま現代日本の組織が抱える問題や犯している罪でもあった。(藤木達弘氏)

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること   (その4 続・戦争は二度と手に入らない教科書)

ところが、言った当人が終戦と同時に、「あ、死ぬよりも、新しい国の復興のためにしたほうが役に立つんだ」と目が覚めるのです。
そんなこと、どちらかというとすぐにわかりそうなものですけど、それでほとんどの人が、そのまま天寿を全うする。戦後を生きていくわけです。
私は死ねばいいとは思いません。けれども、約束によって命令を出した相手は本当に死んでいるわけです。そういった深い約束をしているのに、それを一瞬にしてコロッと忘れて、周囲もそれを認めている。そういう人が戦後を作ってきたと思うとどんな約束でも状況が変わったら破っていいのだという風潮があるような気がするのです。
 こうすればよかった、という簡単な結論は言えないのですが、その約束というものは、本当に命がけの約束というものは本来、きちんと守らなくてはいけない。そういう世の中にならなくてはいけないのではないかと思うのです。「おまえ行け、俺も行く」と言って、相手は死んでいるのに、その数十分後にコロッと態度が変わるような人がいる。本当にそれでいいのか、という気持ちです。
 私は、一番激しい戦闘をした艦爆乗りの人を知っていましたが、彼は8月15日の午前10時ごろに特攻攻撃を命ぜられ、飛んでいるのです。命令する人は、数時間後に終戦が来
ることを知っています。指揮官は知っていて、まだ終戦ではないからと行かせるのです。
それでその時点でも必ず、「あとから行く」っていうのです。でもほとんど「あとから行く」ことはしないのです。そういう人たちが作った戦後というのが、戦後の一つの歪みの原因に潜んでいるのではないか、という気がしてならないのです。(戸高一成氏)

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その3 戦争は二度と手に入らない教科書) 

続いて共著者の戸高一成氏がなぜ過去を知らなければならないかを、「次世代へ伝えたいこと」のなかでこう書いています。
 (昭和23年生まれの私の)同世代や下の世代については、歴史に対する考え方のことで危惧を感じています。きちんと知る知らないという以前に、何があったかを知ることが基礎だと思いますから。そういう情報さえ十分ではない、という気がします。きちんと最低限、過去にあったことだけでも若い世代に知ってもらえるように、やっぱり学校の教育がベースを作らないといけないですね。歴史の授業が必修ではないという現実はおかしなものだと思います。それは失敗ばかりではない。歴史は、多くの失敗と多くの成功が交じり合っていると思います。その両方を公平に見て、公平に伝えたい。過去の悪かったことと同時に、いかに日本人が多くの努力をしてきたかという側面も同様に伝えていかなければおかしい。
 そして、過去のことを「ああ、なるほど」といって、物語として知るだけではいけない。なぜ過去を知らなければならないかというと、それが未来を知ることだからです。歴史は教訓というか、教科書、参考資料ですね。ですから、戦争はせっかくの教科書、本当に二度と手に入らない教科書ですから、これを勉強して、二度と同じ過ちを犯さないという、そういう気持ちが基本的になくてはいけないと思います。
 たとえば、私は飛行機乗りの方に話をたくさん聞きましたが、特攻で、それこそ出撃直前に終戦になって助かったとか、出撃したけれど飛行機の故障で助かったという方がいらっしゃいます。そうした方に話を聞くなかで一番問題だなと思ったのは、特攻を命ずるということは、人に死ぬ任務を命ずるわけです。命令ですから嫌も何もないわけで、こういう命令を与えるときに、ほとんどの指揮官が例外なく、「必ず自分も後から行くから、おまえ、行け」と、こういう訓辞をしているのです。特攻を生き残った誰に聞いても、そういう訓辞を受けています。(続く)

「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること(その3 戦争は二度と手に入らない教科書) 

続いて共著者の戸高一成氏がなぜ過去を知らなければならないかを、「次世代へ伝えたいこと」のなかでこう書いています。
 (昭和23年生まれの私の)同世代や下の世代については、歴史に対する考え方のことで危惧を感じています。きちんと知る知らないという以前に、何があったかを知ることが基礎だと思いますから。そういう情報さえ十分ではない、という気がします。きちんと最低限、過去にあったことだけでも若い世代に知ってもらえるように、やっぱり学校の教育がベースを作らないといけないですね。歴史の授業が必修ではないという現実はおかしなものだと思います。それは失敗ばかりではない。歴史は、多くの失敗と多くの成功が交じり合っていると思います。その両方を公平に見て、公平に伝えたい。過去の悪かったことと同時に、いかに日本人が多くの努力をしてきたかという側面も同様に伝えていかなければおかしい。
 そして、過去のことを「ああ、なるほど」といって、物語として知るだけではいけない。なぜ過去を知らなければならないかというと、それが未来を知ることだからです。歴史は教訓というか、教科書、参考資料ですね。ですから、戦争はせっかくの教科書、本当に二度と手に入らない教科書ですから、これを勉強して、二度と同じ過ちを犯さないという、そういう気持ちが基本的になくてはいけないと思います。
 たとえば、私は飛行機乗りの方に話をたくさん聞きましたが、特攻で、それこそ出撃直前に終戦になって助かったとか、出撃したけれど飛行機の故障で助かったという方がいらっしゃいます。そうした方に話を聞くなかで一番問題だなと思ったのは、特攻を命ずるということは、人に死ぬ任務を命ずるわけです。命令ですから嫌も何もないわけで、こういう命令を与えるときに、ほとんどの指揮官が例外なく、「必ず自分も後から行くから、おまえ、行け」と、こういう訓辞をしているのです。特攻を生き残った誰に聞いても、そういう訓辞を受けています。(続く)

日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四百時間の証言より」が教えてくれること (その2 歴史に学ぶ必要性について)

以前にお話ししたかもしれませんが、当法人では理事長と若い職員がひざ突き合わせて意見し合う機会を作ろうと、K-T塾(君と富永の塾)を昨年から始め一年に4回の懇談会(時には鍋をつつきますが)を行い今年で2年目になりました。一年を締めくくって塾生との懇談に当たって職員にも聞いてもらえるように、1回目と4回目は講演会の形式をとっています。4回目のテーマは「日本人として親として考えてほしいこと」と題して話題提供をしています。その中で「歴史に学ぶ必要性」を必ず話します。その理由を半藤一利氏が、「次世代へ伝えたいこと」のなかでこう話してくれています。 歴史というのは要するに、年表とかを覚えることではない。歴史というものは人間が作るものですから、つまり、人間を知るため、人間をよくわかるためには歴史が一番いい。歴史をやるということは人間学だ。歴史学ではなく人間学だと思って見れば、人間というものはいかに、こういう危機のときに周章狼狽して判断を間違うか、自分の命が惜しいばかりに、いかに卑劣なことをするか、そういうことが歴史にはたくさん事例があるわけです。それを知るということは、ものすごく日本の将来のためにいいことだと思うのです。とくに昭和史を学ぶことは、いまの日本人をいっそうよく知ることになります。(半藤一利氏)